日本の人間国宝が認めた中国人陶芸家―宋少鵬 承相紫砂研究所所長

Record China    2019年7月25日(木) 16時20分

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岡山に「人間国宝」の伊勢崎淳氏を訪ねたばかりの中国人青年陶芸家・宋少鵬は、東京で本誌の取材に応じた。

祖母は最愛の孫である宋少鵬にもよくお茶を振る舞ってくれた。あの幸せな幼少期のことは、今も彼の心に深く留まり温かな記憶として残っている。そして、彼に初めて「茶と器」の関係を教え、器の美学を教えてくれた。

この潮州の男性との思いがけない出逢いが、宋少鵬に幼少期の記憶を呼び起こさせ、彼と紫砂壺の関係を運命づけたのである。それ以来、彼は玄妙な茶器の世界に魅せられ、「茶」と「器」の融合と共生の中に聞こえる太古からの反響に耳を澄ませた。

ほどなくして済南に戻った宋少鵬は、車を十時間以上走らせ、「世界にたったひとつしか存在しない壺の名産地」と言われた誇り高き古城・宜興へ向かった。宜興に降り立つと、知り合いもなく土地に馴染みもない素人の彼は、茶器に対する情熱だけで、この底深い世界に飛び込んだ。多くの苦労は言うに及ばず、高い授業料も必要だった。しかし、宋少鵬は当時を清々しく振り返り感謝を込めて、彼に最も影響を与え最も支えてくれた二人の人物について語ってくれた。

一人は紫砂陶芸の大家である王寅春の孫娘の王芳である。王芳は陶芸家の家に生まれだが、常に専心して事に当たり、公平な人柄で、若い宋少鵬に強い印象を残した。後に彼女は黄龍山原鉱を知り尽くす陳偉を彼と引き合わせてくれた。

こうした状況の下、宋少鵬は原鉱から精製の技法に至るまで、紫砂壺のおおもとと要を明らかにすると、鉱石の購入、土練り、窯作り、試焼に資金と技術を投入していった。焼成と調温を何度も繰り返し、電気窯、ガス窯、柴焼窯を一通り試し、廃棄した作品は少なくとも数千に及ぶ。そして終に柴焼の世界で刮目される存在となったのである。


▼伝統の落灰釉工芸を復活させ、文化交流で再生

宋少鵬の紫砂壺制作に対する学びと伝承の歩みは止まることがなく、紫砂壺への理解が深まるにつれて、中華民族の血脈に眠る文化に対する責任感は次第に強さを増し、さらなる探求心が芽生えた。

中国明代の嘉靖・万歴年間、紫砂の焼成はすべて土の窯で行われ、紫砂には落灰釉が見られた。ところが残念なことに、後期になると紫砂の器は匣鉢(耐火性の容器)に入れて焼かれるようになり、中国国内から紫砂落灰釉工芸は消失してしまったのである。宋少鵬は何度も試験を繰り返した後、莫大な時間と労力を要する柴焼窯に狙いを定め、伝承が途絶えて久しい落灰釉工芸への挑戦を開始した。

海を隔てた日本でも、これに類する工芸が伝承されている。中でも中国の落灰釉工芸に最も近いのが岡山県の備前焼である。2017年、宋少鵬はメディア界で活躍する楊錦鱗の薦めで岡山県に赴き、日本の「人間国宝」で備前焼の大家である伊勢崎淳氏を訪ねた。

今日、宜興紫砂は制作技法の向上により注力し、原鉱選びが幾分疎かになっているのだが、「10本の指で土を感じるのです」と、宋少鵬は原料重視を主張する。彼は伊勢崎氏との交流を通して、備前焼と宜興紫砂の創作理念における類似点と相違点を感じた。

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