<海運国ニッポン>原点は会津の水運にある ―阿賀野川を使った交易の足跡

山本勝    2023年2月19日(日) 10時0分

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海運国ニッポンの原点は、水運を使った交易と、海路に活路を見い出そうと奮闘した近世の人々の志の歴史にある。

海運国ニッポンの原点は、水運を使った交易と、海路に活路を見い出そうと奮闘した近世の人々の志の歴史にある。

2022年4月に会津地方を訪れた。満開の桜が咲き誇る鶴ヶ城を見て、次の目的地は会津から新潟に抜ける会津街道のほぼ中間地点にある津川(阿賀町)である。

坂下から西会津を経て県境の峠を越えると、数キロで阿賀町の集落に至る。街道から阿賀野川の川沿いに脇道を入ると、そこが近世会津と新潟を結ぶ川舟の交易地として栄えた津川の中心地だ。付近で常浪川が阿賀野川に合流し、合流地点に突き出た小高い丘には津川を治めた武将の城跡が残る。舟着き場は合流する河の流れを利用するかたちで町の真下の川岸に何カ所かつくられていたようで、いまもそれとおぼしき跡が遺跡として残され、当時を偲ぶことができる。

雪解け水を満々とたたえ、滔々と流れる阿賀野川は、明治11年の夏にこの地から川舟に乗り換えて新潟に向かったイギリスの旅行家イザベラ・バードがまるでライン川のようだと例えたとおり、異国風ともいえる美しい流れと岸辺の風景を見せていた。

全長210キロの阿賀野川本流は、福島県の荒海川を源流とし、北に流れる。会津若松を過ぎて喜多方あたりから西に折れ、会津地方で阿賀川と呼んだ流れはやがて新潟県に入って阿賀野川と名を変える。津川から十数キロで新潟平野に出て、さらに川幅を広げながら海に至る。河口を接するようにもう一つの大河信濃川が流れ込み、この2つの川がもたらす堆積物が広大な平野を形成、日本有数のコメどころであり港町である新潟を生んだ。

山が海に迫りがちな日本列島にあって、道路や鉄道が整備される以前、重要な役割を果たしていたのが河川を使った船による物資の輸送だ。

山国会津の交易は、新潟に向けては年貢米や扶持米、漆器そして豊富な木材など、新潟からは海産物や塩など、専ら水量豊かな阿賀野川を使って行われた。大量の物資を安全に運ぶことのできる川舟の発着点が津川だったのだ。これより上流は流れが速く浅瀬もあって、川舟を使った輸送は試みられたことはあっても、恒常的な交易ルートとはならなかったとみられる。しかし会津が渇望する塩は途中陸路を経由するルートも使いながら今の喜多方市付近(塩川)まで阿賀野川をさかのぼって運ばれたことは地名の由来などから確かなようだ。会津地方の豊富な材木はいかだを組んでかなり上流から新潟まで流れ下って運ばれたことはいうまでもない。

従って、通常の交易品の場合、津川と会津の間は専ら馬を使った陸路を行く輸送ということになり、イザベラ・バードの記述にあるとおり、山中の急峻な悪路は人馬を悩ませ、想像を絶する苦労があったと思われる(イザベラ・バードは会津坂下から丸2日かけて山を越え津川に入った)。早朝、津川を25人の日本人客と共に川舟に乗り換えて出発したイザベラ・バードは、午後3時には新潟郊外に到着したと記していて、川を使った輸送がいかに便利で経済的にも優れた手段であったかがわかる。

経済が発展し、人口が集中した大都市、東京、大阪、名古屋などはいずれも大きな河川の流れがつくった広大な平野にあり、海の玄関の港と共に河川や運河を使った船による物資の輸送、交易が経済的繁栄をもたらしたといえる。

今は小さな集落に過ぎない津川(加賀町)であるが、川舟の往来が盛んなころには5000を超える人口があったといい、代官所、宿、料亭、倉庫や番屋、商人屋敷が立ち並び、大変な栄華を誇っていたようだ。今でも当時の面影を残す建物や遺跡が点在し、美しい川面の風景も当時のままで、たくさんの川舟が行き交う当時の様子が目に浮かぶようだ。ぜひ大勢の人に訪れてほしい町である。

山国会津であるが、安政年間、蝦夷地に新領地を得たことを契機に、新潟の阿賀野川の河口に藩直轄の港を確保、北前船の交易で藩の財政に貢献しようと試みたこともあった(これは失敗)ように、幕末の混乱と海運の経営で財力の増強を図る西国雄藩をにらみながら、海路に藩の将来の活路を見い出したいという強い思いがあったようだ。

その後、戊辰戦争の敗北により、会津藩は下北半島の斗南藩に配置替えとなる。港を有するこの辺境の地で改めて海運立国の志を実現しようと、西洋型の風帆船を購入、藩士の子息を乗組員として訓練するなど準備を進めたが、翌年の廃藩置県により、この試みも実を結ぶことはなかった。明治になり、日本は殖産興業の柱の一つに海運を掲げ、西欧列強と競いつつ海外との交易を広げていく。海運創成期のわが国の商船隊で会津出身の幹部船員が多数大活躍した事実を郷土の歴史研究家(筆者の友人でもある)が発見。上述の山国会津が海路にこだわり続けた歴史と、そのDNAが会津出身の船乗りたちに受け継がれていった事実が明かされ、極めて興味深い。

海運立国ニッポンの原点に近世から育まれた水運を使った交易があり、海路に活路を見出そうと奮闘した人々の強い志があったことに思いをはせることができたのも今回の旅の成果であった。

■筆者プロフィール:山本勝

1944年静岡市生まれ。東京商船大学航海科卒、日本郵船入社。同社船長を経て2002年(代表)専務取締役。退任後JAMSTEC(海洋研究開発機構)の海洋研究船「みらい」「ちきゅう」の運航に携わる。一般社団法人海洋会の会長を経て現在同相談役。現役時代南極を除く世界各地の海域、水路、港を巡り見聞を広める。

※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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