【東西文明比較互鑑】中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入(4)結びの章

潘 岳    2022年1月6日(木) 13時40分

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一体と多元の概念は20世紀中国の2人の偉大な学者に葛藤と交錯をもたらした。写真は「十字軍によるエルサレムの占領」1847年、エミール・シグノール作。

自らの物語

東晋・南北朝時代の300年間の物語は、政権の移り変わりが目まぐるしく、多数の人物や事件が複雑に絡み合っている。見ただけで混乱するし、混乱すれば嫌にもなる。整理することの非常に難しい歴史である。しかし、中華民族の再構築と中華文明の飛躍的構造転換の謎を解くカギは、まさにこの300年間に隠されている。七転八倒、我慢強くこの300年と格闘しなければならない。それができなければ、自らの原点をみつけることは難しいだろう。

ここで『三国志演義』を引き合いに出そう。数百年人々の手あかにまみれてきた作品である。版も遺跡も事欠かない。歴史に疎い若者は、中国史=「三国志」と思っている節がある。実は、三国時代はたった60年で、しかも中国史上最も後れた時代である。中国の人口は、明末の主食不足のときでも2000万人から6000万人の間を保っていたが、三国時代には1000万人にまで減っている。書中に描かれた、ややもすれば数十万にもなる大軍の会戦はすべて脚色である。曹氏父子の文治・武勲を除いて、後の300年の壮大な叙事詩に比肩しうるものは何もない。しかも、300年の間にもっと大規模な「三国鼎立」が幾度も出現している。その政治状況の複雑さ、君主、功臣、名将の活躍、兵員規模の大きさ、歴史的影響の激しさ、どれをとっても『三国志演義』とは比べものにならない。

三国鼎立を順に挙げると、まず江南の東晋、匈奴劉氏の前趙、羯石氏の後趙の鼎立、次に東晋、鮮卑慕容部の前燕、氐の前秦の鼎立、三つ目に東晋、羌姚部の後秦、鮮卑慕容部の後燕の鼎立、四つ目に江南の宋、匈奴赫連部の夏、鮮卑拓跋部北魏の鼎立、五つ目に江南の斉・梁、東魏、西魏の鼎立、六つ目に江南の陳、高氏の北斉、宇文氏の北周の鼎立である。ここには歴史を変えた英雄物語が数えきれないくらい含まれている。聞鶏起舞〔鶏の鳴き声を聞いたら起きて剣舞の稽古をする、目標のために奮闘努力する意〕、中流撃楫〔川の中流で楫を撃つ(舵を捨てる)、敵を征伐しなければ再びこの川を渡らないという不退転の決意〕の故事で知られる劉昆と祖逖、石勒と漢人軍師・張賓の「鄴城攻囲」、前燕・前秦・東晋北伐軍が雄を争った幾多の会戦、「苻堅の管仲」王猛、「前燕の霍光」慕容恪、「司馬徳宗の曹操」劉裕ら(116)大英雄の知恵と勇気、百万大軍を率いて渡江を試みた(この時代百万規模の渡江は他に例がない)苻堅の迫力と処刑を前にしたその落ち着き、無辜の功臣・崔浩の処刑時に数十の衛兵が尿をあびせる惨劇……(117)。最も劇的な風雲際会は、26歳の宇文泰が使節に扮し、まさに絶頂期にあった37歳高歓の様子をこっそりとうかがう一幕である。高歓の覇権が定まりつつあったこのとき、宇文泰は心中密かにこう思っていた。もし高歓が真の英雄ならば進んで投降しよう、自分と優劣に差がないのであれば徹底的に戦おうと。宇文泰はこの半日後に後者の決断をし、急ぎ西に取って返す。他方、使節〔宇文泰〕をみた高歓は「この小僧の目の異様さ」に感ずるところあり、追っ手を出したが間に合わなかった。北魏朝廷のこの一幕がその後の歴史を決した(118)。高歓は北斉の祖、宇文泰は北周の祖となり、双方の10年にわたる5度の会戦は、敖曹〔高昂〕、竇泰、王思政、韋孝寛らの名将を生み出した。宇文泰に従った関隴集団〔武川鎮軍閥〕から出た楊忠の息子・楊堅は隋の初代皇帝となり、李虎の孫・李淵は唐の初代皇帝になっている。集団の重鎮だった独孤信の長女は北周・明帝の明敬皇后、七女は隋・文帝の文献皇后にして煬帝の母、四女は李淵の母、李世民の祖母である。一方、高歓の方はほとんどの名将に先立たれたが、その死後唯一残った侯景―彼は高歓その人のみに忠を尽くし、その子には背いた―はわずか8000の兵を率いて南下し、若き日は武勇を誇ったものの晩年は仏教に心酔し財政を圧迫した梁の武帝を監禁、餓死に追いやり、梁を滅ぼした。

こうした「帝王、名将、功臣」の他に「文人墨客」の物語もある。南朝の『子夜歌』、北朝の『木蘭辞』、鮑照の辺塞詩、陶淵明の田園詩、謝霊運の山水詩はいずれも唐詩の源とされる。江淹の『恨賦』『別賦』は李白によって繰り返し模写され、庾信の『哀江南賦』は杜甫が終生吟じたものだ。王国維は六朝の「四六駢儷体」を楚辞・漢賦と唐詩・宋詞の間をつなぐ「一時代の文学」とみなした(119)。蕭統の『文選』が中国初の文章詩賦のアンソロジーであること、劉勰の『文心雕龍』が中国文学の理論的集大成であること、鍾嶸の『詩品』が中国初の詩論専門書であることは、いまさら言うまでもないだろう。

『木蘭辞』の練習をする小学生(中国新聞社

さらに、戦乱絶えないなかでの仏教の中国化の物語がある。五胡入華の乱世に際して、石勒と石虎に国師に奉ぜられた西域の胡僧・仏図澄は、幻術と因果説で絶えず石勒・石虎に「王者にならって徳による教化をおこなうこと」を諭した(120)。後趙滅亡後、仏図澄の弟子・道安は説法を続けながら襄陽に移り、はじめて「不依国主則法事難立〔国主に依らざれば即ち法事立ち難し〕」を説き、「沙門不敬王者〔仏門は王者に従属しない〕」の教義を覆した(121)。苻堅は道安を迎えるために襄陽を攻め、道安は長安に移ってからまったく面識のない亀茲国の高僧・鳩摩羅什を招くよう苻堅に進言した。そのため苻堅は西域に兵を出したが途中で前秦が滅亡し、16年後、後秦が鳩摩羅什を国師として長安に迎えたときには、道安はすでに他界していた。鳩摩羅什は「東行」という初心を忘れず、数百巻の仏典を翻訳し、大乗仏教中観思想と中国古典哲学の融合の基礎を築いた。南北の政権は長江を挟んで対峙していたが仏教の交流は途絶えることがなく、道安の弟子・慧遠は南下して廬山東林寺で説法をおこない、慧遠の弟子の道正も長安に北上、鳩摩羅什に師事した。同時期には建康〔南京〕であまたの名僧が活躍している。なかでも法顕は仏典を求めて長安からパミール高原を越えてインドに渡り、南洋航路を経て建康に戻った高僧である。訪れた国30、かかった年数15年、この紀行をまとめた『仏国記』は南アジア諸国についての貴重な史料である。交流は南北だけではない。苻堅が西域を征服してからは、中印の僧侶も行き来が絶えなくなった。達磨が禅宗を中国にもたらすことができたのもこのおかげである。この300年の間に生まれた仏教の主な大宗派は、紆余曲折の過程を経ながら、仏教と政治の関係を整理するところから始めて「政主教従」のモデルを確立し、仏教と父母の関係の整理から因果と孝悌が矛盾しないことを明らかにし、同じく仏教学説と中国哲学の関係を整理して、そこから後の禅学・理学発展の先鞭をつけたのである。

安徽省淮南市にある淝水古戦場跡(中国新聞社)

300年のあまたの物語のなかで、最も重要なものはやはり中華民族胡漢融合の物語である。われわれは何者なのか。漢人かそれともモンゴル人か、はたまたチベット人かウイグル人か、それとも満人か。何をもって中華民族といい、中華文明というのか。何をもって自己のアイデンティティとするのか、精神世界とするのか。300年の歴史をみれば明らかになる。若者にも、文化人にも、そして西洋人にもこの300年をもっとみてほしい。300年の物語には、手に汗握る瞬間もあれば身の毛もよだつ恐怖を感じる瞬間もある。深く考えさせられる場面があるかと思えば、活気と寂寞がめまぐるしく変わる場面もある。

『勅勒歌』という民歌がある。誰もが一度は聞いたことがあるだろう。しかし、見渡す限り刀剣と血の海だった戦場でこの歌が生まれたことを知っている人はいるだろうか。高歓は宇文泰との10年にわたる戦争でむしろ負けることのほうが多く、河東の玉壁城下で最後の戦いに臨んだ。ときは吹き荒ぶ寒風に黄河もむせび泣く546年の秋である。高歓の20万の大軍は50日にわたる攻撃を敢行したが、折り重なる死者の犠牲はいまだ報われない状況だった。知略に長け生涯無敵を誇った高歓も、自らの生あるうちに宇文泰を滅ぼし、再び天下を統一することはできないと悟り、撤退を命じるしかなかった。あわただしい退却のなかで7万の戦死者の遺体をろくに埋葬することもできず、地面に大きな穴を掘って埋めるのが精いっぱいだった。晋陽に着くと高歓は病体をおして軍の士気を落ち着かせるべく、将軍・斛律金に命じて歌の音頭をとらせた。「勅勒の川、陰山の下。天は穹廬に似て四野を籠蓋す。天は蒼蒼たり、野は茫茫たり。風吹き草低れて牛羊を見る」。鮮卑語の歌詞がいつまでも優美に響き、まわりの将兵全員が唱和した。10年間の戦いで亡くした数十万の将兵を思い、自身の白髪頭とどこまでも続く大河に目をやりながら高歓はさめざめと涙を流した。ここから『勅勒歌』は世に広まったのである(122)。一方同じころ、西の宇文泰は『周礼』の黄鐘大宮〔十二律の音〕と雅楽の正音を復興し、同じく『周礼』に基づいて六官制〔行政官僚制〕を設置し、六芸〔六経〕を奨励した。30年後、この北周が北斉を滅ぼし、やがて隋唐時代が幕を開けるのである。

高歓は「鮮卑化」した漢人であり、宇文泰は「漢化」した匈奴である。中華民族融合300年の歴史のなかで、いずれも典型的な中国人である。彼らが戦をするのは自身のエスニック集団の利益のためではなく、天下統一のためである。こうしたことを中国の若い世代が進んで体得し守り抜かなければ、また、欧米の若い世代が積極的に知り理解しなければ、中西両文明を隔てる壁は紙のように薄くても決して破られることはない。ちょうどそれは、誰もが『勅勒歌』の存在を知りながら、その来歴に関心を向けようとしないのと同じである。

(脇屋克仁訳)

古代ローマ「トラヤヌス市場」遺跡の列柱(中国新聞社)

(96)この「積み上げて」説の核心は「時代が後になるほど伝説の古代史の期間が長くなる」、あるいは「時代が後になるほど古代史の知識は遡って増え、文献的証拠がないほどその量も多くなる」という点である。顧頡剛の考えに従うなら、古代史の順序はちょうど逆さまになる。つまり、盤古は一番遅く「発見」されたのに一番古くて格が高い(天地開闢の創世神)。以下、三皇(天皇、地皇、泰皇)―黄帝・神農―堯舜―禹となるにつれて時代も格も下がっていくが、「発見」された順番はこの逆である。つまり、「禹」は最も早い西周の時代、「堯舜」は春秋時代、「黄帝」「神農」は戦国時代、「三皇」は秦代、「盤古」は漢代にそれぞれ「出現」している。

(97)顧頡剛「我是怎様編起〈古史辨〉来」『古史辨』第一冊、上海古籍出版社、1981年、P12。

(98)顧頡剛は1923年5月に発表した「与銭玄同先生論古史書」でこの観点を提起したが、同時に次のようにも言っている。「春秋以降、大国が小国を攻め滅ぼすことが多くなっていった。国土は日増しに大きくなり、民族もどんどん併合され、人種観念が弱まるのに比例して統一観念が強まっていった。その結果、たくさんの民族の始祖神話もまた1本の線の上に次第に収れんされていった」。顧頡剛『顧頡剛全集・顧頡剛古史論文集』(巻一)中華書局、2010年、P202。

(99)「東洋史とは主として東方亜細亜に於ける、民族の盛衰、邦国の興亡を明にする一般歴史にして、西洋史と相並んで、世界史の一半を構成する者なり」。桑原隲蔵『中等東洋史』上巻、大日本図書、1898年、P1。

(100)傅斯年は手紙で次のように述べた。「現在、日本人は、桂〔広西チワン族自治区〕と滇〔雲南省〕はシャン族の故土だとシャム〔タイ〕で宣伝し、失地回復を唆している。また、ミャンマーでは某国人〔イギリス人を指す〕が域内の土司を篭絡し、華人労働者にも接近している。その野望は決して小さいものではない。こうした状況でみだりに『民族』という言葉を使うと分裂の災厄を招く恐れがある。それは決してできない。『中華民族は一つ』、これは信念であると同時に事実だ。辺地の人民にこの意識を貫徹させることがわれわれの急務であり、それこそが正しい計画だ。夷漢が一つであることは漢族の歴史で証明できる。まさにわれわれがそうであるように、胡人の血統がないと断言できる北方人はいないし、百越、黎、苗の血統がないと断言できる南方人もいない。今日の西南は実は千年前の江南、巴、粤耳である。これらは決して曲学ではない」。顧頡剛「中華民族是一個」『益世報・辺疆週刊』第9期、1939年2月9日。

(101)「わが老友(傅斯年)とまったく同じ考えを、九・一八事変以来ずっと心の内に秘めていた」。顧頡剛「中華民族是一個」『益世報・辺疆週刊』第9期、1939年2月9日。

(102)顧頡剛「中華民族是一個」『益世報・辺疆週刊』第9期、1939年2月9日。

(103)費孝通「関於民族問題的討論」『益世報・辺疆週刊』第19期、1939年5月1日。

(104)「中華民族は早くから十分なnationhood(国族)の域に達しており、その政治的力量は非常に大きい。したがって統一を阻害する武力が少しでも弱まれば、人民は立ち上がり、この摂理に反する分裂状況を打破するだろう。もしそうではなく、長期分立もまた安定性をもつということが仮に成り立つとしたら、中国はとっくにバラバラになって一つの民族の体をなしていないだろう。以上のことは、中華民族としての力が各地方の政府にも長らく存在してきたことを十分に示すものでもある」。顧頡剛「続論〝中華民族是一個〟:答費孝通先生」『益世報・辺疆週刊』第23期、1939年5月29日。

(105)顧頡剛「続論〝中華民族是一個〟:答費孝通先生」『益世報・辺疆週刊』第23期、1939年5月29日。

(106)費孝通「中華民族的多元一体格局」『北京大学学報(哲学社会科学版)』1989年第4期。

(107)費孝通「顧頡剛先生百年祭」『読書』1993年第11期、P5~P10。

(108)費孝通「顧頡剛先生百年祭」『読書』1993年第11期、P5~P10。

(109)「韃靼人は自らが征服した国に奴隷制と専制主義をうちたてた。一方、ゴート人はローマ帝国征服後、君主制と自由をいたるところにうちたてた」。モンテスキュー著、張雁深訳『論法的精神』上冊、商務印書館、1959年、P331。

(110)ヘーゲル著、王造時訳『歴史哲学』上海書店出版社、1999年、P111。

(111)孝文帝以前、「中国に主なし、故に正統は東晋と宋にあり」、孝文帝以後、「中国に主あり、すなわち正統は後魏、後周に帰る」

(112)『元経』巻9。

(113)『梵問経』に曰く「すべての観察、思惟は分別である。無分別とはすなわち菩提である」(ツォンカパ『菩提道次第広論』)。一方、禅宗『信心銘』には次の言葉がある。「至道無難、唯嫌揀択〔仏に至る道は決して難しいものではなく、ただ揀択(こだわりの心=分別)を捨てるのみ〕」

(114)馬注「清真指南・自序」『清真大典』(第16巻)、P510。

(115)『漢蔵史集』の「蒙古王統」の章に次のように書かれている。「戊寅の年〔1218年〕、チンギス皇帝は齢33、木雅の甲郭王の後に唐の皇帝になった脱孜という名の国王から武力を頼みに王位を奪った。これにより、23年の長きにわたってモンゴル人が漢地大唐の朝政を管掌した」

(116)「浩曰:『臣嘗私論近世人物、不敢不上聞。若王猛之治国、苻堅之管仲也;慕容玄恭之輔少主、慕容暐之霍光也;劉裕之平逆乱、司馬徳宗之曹操也。』」『魏書・崔浩伝』

(117)「及浩幽執、置之檻內、送於城南、使衛士數十人溲其上、呼聲嗷嗷、聞於行路。自宰司之被戮辱、未有如浩者」『魏書・崔浩伝』

(118)『周書・文帝紀』『北史・周本紀上』

(119)王国維『宋元戯曲史』上海古籍出版社、1998年、「自序」

(120)『高僧伝』巻9。

(121)『高僧伝』巻5。

(122)『楽府詩集』には次の『楽府広題』の文言が引用されている。「北斉神武攻周玉壁、士卒死者十四五、神武恚憤疾発。周王下令曰:『高歓鼠子、親犯玉壁。剣弩一発、元凶自斃。』神武聞之、勉坐以安士衆、悉引諸貴、使斛律金唱《勅勒》、神武自和之。其歌本鮮卑語、易為斉言、故其句長短不斉」

※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入(4)結びの章」から転載したものです。

■筆者プロフィール:潘 岳

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。
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