【東西文明比較互鑑】中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入(4)結びの章

潘 岳    2022年1月6日(木) 13時40分

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一体と多元の概念は20世紀中国の2人の偉大な学者に葛藤と交錯をもたらした。写真は「十字軍によるエルサレムの占領」1847年、エミール・シグノール作。

母体への回帰

一体と多元の概念は20世紀中国の2人の偉大な学者に葛藤と交錯をもたらした。

1人は顧頡剛である。新文化運動は血気盛んな一群のラディカリストを生み出した。顧頡剛はその嚆矢に数えられる。1923年、この蘇州出身の30歳の青年は三皇五帝を激しく攻撃し、上古史は儒家が次々に「積み上げて」つくったものだと考えた(96)。彼は夏・商・周の存在を証明したいならば、その証拠を提出しなければならないと、実証的な方法ですべてを詳らかにすることを主張した。また、社会学と考古学の方法で古書を互いに照らし合わせ、「『経書』や『史書』、『~伝』に記されたすべての偶像を断固として打倒する」(97)とした。この運動は極限まで―「夏禹は蟲だった」というまで―エスカレートした。胡適は「古を疑って失敗しても、古を信じて失敗してはならない」と、これを大いに称揚した。

顧頡剛はこのような方法で「各民族の出自は一つ」「この地〔中国〕は最初からずっと統一されていた」という考えを改めるべきだと提起したのである。古代は「一つの民族に一つの始祖が認められるだけであって、たくさんの民族に共通する始祖などいない」「元来、各々には各々の始祖があるのに、どうしてその一元化を求めるのか」ということだ(98)。こうした「疑古論」が世に出ると思想界に激震が走った。歴史の崩壊はすなわち「中国アイデンティティ」の崩壊であると。しかし、顧頡剛は意に介さなかった。腐りきった2000年の知的系譜はこのようなすべてを刷新する方法でしか再構築できない、彼の眼にはそう映った。新文化運動を先頭で担った人々同様、彼もまた新しい中国の創造に全力を傾けていたのである。

しかし、上古史に最初に疑義を呈したのは顧頡剛ではなく、戦前日本の東洋史学者グループである(99)。20世紀初頭、彼らは東アジア文明の盛衰、民族間の消長遷移、国家の興亡を東洋諸民族の視点で描き出した。その代表的人物である白鳥庫吉は実証史学の方法を提起し、尭舜禹は実在しない、後世の儒家が捏造した「偶像」にすぎないとした。元々、乾隆・嘉慶の考証学精神の影響を強く受けていた顧頡剛は白鳥庫吉の論を拳拳服膺〔常に心に刻む〕し、「打倒上古史」を高らかに宣言したのである。

しかし、この「東洋史の大家」といわれる学者たちは学術の新境地を開く一方、「漢地十八省」論、「長城以北は中国に非ず」論、「満蒙蔵回は中国に属さず」論、「中国無国境」論、「清朝は国家に非ず」論、「異民族支配は幸福」論など、「人種をもって中国を解体する」一連の理論を体系化していった。現在ではこれが米国「新清史」観の前身となり、李登輝ら台独派の拠り所にもなっている。しかも彼らは、魏晋南北朝以降「古くからの漢族」はすでに衰亡しており、一方で満蒙民族もまた傲岸不遜な「夷狄病」に罹っているとし、北方民族の武勇精神と南方漢族の精緻な文化の優れた点を結びつけ、東アジア文明の弊害を救える「文明の最後の拠り所」たりえるのは日本だけだと考えた。しかも、日本文化は中国文化に触発されて育ってきた、いわばその直系子孫であり、中華文明の継承者たる資格を十分に備えており、中華文明の中心は将来日本に移るだろうとした。


漢長城跡(中国新聞社

顧頡剛らは目が覚めた。「九・一八〔1931年の満州事変〕」に直面し、かつて東洋史学に傾倒していた彼は学術と政治の関係をついに悟ったのである。

日本は続けて中国南西部のタイ語族とミャンマー語族に独立を教唆、1938年にこれを目の当たりにした顧頡剛は、傅斯年の考えにも心を動かされ(100)、自身が名を成した理論をついに否定するに至る。翌年2月9日、病にあった彼は杖をつきながら机に向かい、『中華民族は一つ〔中華民族是一個〕』を書きあげた(101)。彼は国内の各エスニック集団を「民族」で線引きすることに反対し、これを「文化集団」で線引きするよう提起している。「元来、古くからの中国人は文化という観念のみを有しており、人種という考えはもたなかった」からだと。事実上これは「国族」という概念―「同じ一つの政府の統治下にある人民」は同じ国族すなわち中華民族に属するという概念の提起である。

彼は自身の出自を例に挙げて説明する。「わたしの姓は顧で江南の旧族だが、思い返しみてもわたしが中国人あるいは漢人であることを否定する人はいなかった。しかし、周秦時代のわが一族は文身断髪の百越〔浙江省からインドシナにかけて分布した海洋系の民族〕に属し、当時は福建・浙江沿岸に暮らしていたので中国とは交流がなく、事実として中国人とはいえない。われわれの祖先である東甌王が漢王朝に帰心し、配下の民を長江、淮河一帯の地に移住させるよう武帝に請うて以降は…… われわれは中華民族の一員ではなく『越族』だというのは通らなくなった」

夏商周3代の「続統」は後世儒家の捏造と一貫して主張してきた顧頡剛が、今度は商から周への遷移を論証し始めた。「商王の末裔である孔子でさえこう言わなければならなかった。『周は夏商2代に鑑みて郁郁たる文化を創造した。わたしは周に従う』。また、孔子は『周民族』や『商民族』という言い方を好まず、『周公東征の遺恨を忘れてはならない』とも言わなかった。むしろ常々夢にみるほど周公をこよなく慕った」。「この気概と度量はいかばかりか。ここには狭隘な人種観念は微塵もない」(102)

『中華民族は一つ』は発表後、有名な論争をよんだ。疑問を呈したのは費孝通―顧頡剛より一回り以上若い人類学者であり民族学者である。当時彼は29歳、顧頡剛とは同郷で、英国留学から帰国したばかりだった。

費孝通は、「民族」とは文化、言語、形質〔身体の形と質〕の差異に基づいて形成される集団であり、科学的概念であると考えた。中国国内には確かに異なる民族が存在する。これは客観的事実であって、政治上の統一を求めてその区別を人為的に消し去る必要はない。敵が「民族」という概念を用い、「民族自決」と叫んで中国を分断するというのは杞憂であると。彼が強調したのは「文化、言語、形質が同じだからといってその人々が同じ一つの国家に属する必要はない」、「一つの国家が一つの文化・言語集団である必要はない」(103)、民国政治の現状がまさに多基軸であり、これまでの中国にも複数政権分立時代はあったからだ、ということだった。

これを聞いた顧頡剛は、久しく病床にあったにもかかわらず、「喉に骨がつかえる」気持ちで起き上がり、『再び「中華民族は一つ」について』〔続論中華民族是一個〕を書いた。彼はこう反論する。中華民族の「国族性」は十分に強大で「分裂」は「摂理に反する状況」だ。分断をもたらす軍事力が少しでも弱まりさえすれば、人民自らが分裂状態を終わらせるだろう。もし「長期分立」が動かしがたい自然の摂理というのなら、中国はとっくにバラバラになっていただろうし、一つの民族を形成することもなかっただろう(104)。最後は怒号ともとれる言葉で締めくくられている―「まあ、待つがいい。日本軍が撤退すればわかる。そのとき東北4省と被占領区の人民がわれわれに格好の例を示してくれるだろう」(105)

先達の病床からの怒りに費孝通は沈黙し、再び反論することはなかった。「中華民族は一つなのか否か」は結論の出ない難題として残されることになった。   41年後(1980年)、顧頡剛は87歳で世を去った。その8年後、78歳の費孝通は『中華民族の多元一体構造〔中華民族的多元一体格局〕』と題する長い講演をおこない、論文としても発表した。彼はここで中華民族が自然発生的な実体をもって存在することを認めた。「自覚的な民族の実体としての中華民族は、この100年来、中国が西洋列強と対抗していくなかで出現したものであるが、自然発生的な民族実体としては数千年の歴史プロセスを経て形成されたものである。その主な流れは、分散し孤立して存在した数多くの民族単位に始まり、それらが接触、雑居、結合、融合、そして同時に分裂と消滅を経て、一方が来れば他方が退く、一方が他方を包含するといった統一体、しかも各々が個性をもった多元的統一体を形成するというものであった」(106)

さらに5年後の1993年、蘇州に帰省した費孝通は顧頡剛生誕100年祭に参加し、60年前の難題にはじめて答えた。「あとになってわかったが、顧先生は日本帝国主義が東北に『満州国』を成立させ、内モンゴルで分裂を煽動したことに相対していたからこそ、愛国の情熱から胸に義憤を抱きながら、『民族』を利用してわが国を分裂させる侵略行為に全力で反対した。わたしは先生の政治的立場を完全に擁護する」(107)

費孝通の「多元一体」論は、「一元」と「多元」の間をとった、折衷的で弥縫的な「政治的言動」に過ぎないとの批判がある。しかし、西洋の民族概念で「中国の民族」を描くことは不可能であり、そこに問題の根本があると彼は考えた。「西洋の既存の概念を安易に剽窃して中国の事実を論じるべきではない。民族は歴史的範疇に属する概念である。中国民族の実質は中国の悠久の歴史によって決まるのであり、民族に関する西洋の概念を無理やりあてはめるならば、辻褄の合わない部分がたくさん出てくるだろう」(108)

費孝通は自分でも晩年の転換を説明している。「曲阜市〔山東省〕の孔林〔孔子の墓地〕を逍遥しているときふと思い至った。孔子は多元一体の秩序をつくったのではなかろうかと。しかも彼は中国でそれに成功し、とてつもなく大きな一つの中華民族をつくった。中国がチェコスロヴァキアや旧ソ連のように分裂しなかったのは、中国人に中国人という意識があったからである」

顧頡剛と費孝通―2人の葛藤と交錯は近代中国知識人に共通する精神的歴程の反映である。西洋の概念を用いて中国の知的伝統を作り変えようと渇望すれば、西洋の経験では自身の文明をトータルに捉えられないことに気づく。政治から独立した西洋学術を望めば、今度はそれが実は政治と不可分一体であることに思い至る。そして最後は中華文明の母体へと回帰していくのだ。

他者の視点

中国は1世紀以上にわたって政治と文化の発言権を失い、「中国の歴史」はすべて西洋と東洋〔日本〕によって書かれてきた。同胞内の自他認識はすべて外来学術の枠で形づくられてきたのである。

例えば大漢民族主義や狭い民族主義の観点である。前者は「崖山の戦いの後に中国はない」、「明滅亡後に華夏はない」といったものだ。後者は「満蒙蔵回は中国にあらず」という認識である。これらはすべて当時の「東洋史」の負の遺産である。

また、「イデオロギー」を使って西洋史のベンチマーキングを試みる歴史学者もいる。西洋が「大一統」を専制政治の原罪であるといえば、こうした学者はその罪を元・清両王朝になすりつける。曰く、漢・唐・宋は元来「皇帝と士大夫がともに天下を治める」「開明的専制」であり、西洋に近しいものだったが、結果的に遊牧民族の「主・奴観」によって「野蛮的専制」に変えられてしまった…… 明朝の高度な集権体制は元朝軍事制度の名残である…… 中国に資本主義が生まれなかったのは清朝がその芽を摘んだからだと。このような結論になるのは、中国に未だ資本主義が生まれない内在的ロジックを掘り下げて研究していないからである。

さらに次の例がある。中国には「自由の伝統」が欠如しているから、いわゆる民主制度が発展しなかったという西洋の認識に対して、「農耕文明」は専制の、「遊牧文明」は自由の表れであることを論証しだす学者がいる。もし元が明に滅ぼされていなかったら、13世紀にはすでに商業と法規に基づいた社会形態が中国にもあったという主張だ。彼らには「自由な精神」の栄誉はゴートとゲルマンにのみ属し、匈奴や突厥、モンゴルには一貫して無縁のものだということがわかっていない。モンテスキューも書いているように、同じ征服でもゴートのそれは「自由」の伝播であり、韃靼(モンゴル)のそれは「専制」の伝播だった(『法の精神』)(109)。ゲルマン人は完全な自由を、ギリシャ人は部分的な自由を知っていたが、すべての東洋人は、いかなる自由も知らなかったとヘーゲルも書いている(『歴史哲学』)(110)

こうした諍いと泥仕合はすべて、われわれが常に他の文明の視点で自分たちをみることから生じる。もとより他の文明の視点は多元的思考にとってプラスではあるが、国際政治の荒波にのみこまれてしまうことが多い。過去もしかり、今後もしかりである。

中華文明は「人種」概念をもったことがない。しかし、それを超えるより強大な精神―「天下」という精神をもっている。初唐のほとんどすべての功臣は隋の大儒学者・王通の門下から出た。王通自身は漢人だが、中国の正統は漢人の南朝ではなく、鮮卑の孝文帝にあるといった(111)。孝文帝は「居先王之国、受先王之道、子先王之民〔先王の国(周)に住み、先王の道を受け継ぐわたしもまた先王の民〕」(112)と言ったからである。これが本当の天下精神、ということだ。

他のエスニック集団も同じである。

チベットもモンゴルも仏教を信仰したが、チベット仏教にせよ漢族地域仏教にせよ「無分別智〔煩悩の源とされる分別を超えた智慧〕」を教義にもつ(113)。中国ムスリムの「回儒思想」の伝統にも「西域聖人之道同于中国聖人之道。其立教本于正、知天地化生之理、通幽明死生之説、綱常倫理、食息起居、罔不有道、罔不畏天〔西域の聖人の教えは中国の聖人の教えと同じで、公平中立、天地成り立ちの理を知り、来世今生の道理に明るく、三綱五常、倫理道徳、飲食起居、すべてが理にかない、すべてに天を敬う心がある〕」(114)。という教えがある。エスニック集団の壁を打ち破るこうした天下精神が中華文明の下地になっている。中華民族史とはすなわち「エスニシティの限界」を乗り越える「天下精神」の歴史なのだ。

中華民族の融合は奥深い感情にも満ちている。明末に書かれたモンゴル『黄金史』には、永楽帝は元・順帝の腹違いの子で、靖難の変〔明初の皇位継承をめぐる政変〕を経て明の皇統は密かに元に回帰し、「元の天命」は満人の入関まで続いたとある。明初の『漢蔵史集』にも次の記述がある。「モンゴル人が漢地大唐の朝政を管掌した」(115)。これがすなわち元であり、宋の末帝(蛮子合尊)は崖山で身投げしたのではなく、チベットに逃れて仏法を修め、サキャ派の高僧になり、最後は生まれ変わって朱元璋という名の漢僧になった。そして、モンゴルから帝位を奪い、モンゴル人によく似た風貌をもつ朱棣〔永楽帝〕という息子を授かった、と。「輪廻」と「因果」で宋・元・明の3王朝を互いに「前世後世」で結ぶ―これはもちろん正史ではなく野史であり、宗教上の伝説である。しかし、自他を包摂する大中華に対する当時の人々の素朴な共通認識であり、それぞれのエスニック集団がそれぞれのやり方で「運命共同体」的感情を表現したものである。こうした感情は、外来理論で中国を描く人には理解しがたいものだろう。

奥深い感情があってはじめて深い理解が生まれる。そして、深い理解がなければ真実を築きあげることはできない。結局、中華民族の物語はわたしたち自身の手で書かなければならないのである。

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