<東京パラリンピック>困難を克服し躍動!パラアスリートは皆美しい―立石信雄オムロン元会長

立石信雄    2021年8月29日(日) 6時50分

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東京パラリンピックの競技がたけなわ。パラスポーツならではの種目は面白い。幾多の困難を乗り越えて躍動するパラアスリートは皆美しい。私も大きな〝元気〟〝活力源〟をいただいている。

東京パラリンピックの競技がたけなわである。トライアスロン、陸上競技、自転車、水泳、柔道など飽きない。ゴールボールや車いすラグビー、シッティングバレーボールなどパラスポーツならではの種目はスリリングで面白い。幾多の困難を乗り越えて躍動するパラアスリートは皆美しい。私も大きな〝元気〟〝活力源〟をいただいている。

中でも車いすバスケは障がい者スポーツの原点である。「太陽を愛したひと ~1964 あの日のパラリンピック~」とういうNHKノンフィクションドラマビデオを繰り返し視聴している。1964年の東京パラリンピックを成功に導き、その後、障がい者自立のための施設を設立するなど、障がい者の社会復帰に生涯を捧げた医師・中村裕の波乱の人生を描いた感動の物語である。

1960年、整形外科医の中村裕博士は研修先のイギリスで、スポーツを取り入れた障がい者医療を学んだ。その時に出会った言葉が、その後の彼の人生の原動力になる。

「失ったものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」。

イギリスから帰国した中村医師は、障がい者スポーツを何とか広めようとするが、日本ではリハビリという言葉すらなかった時代。「見世物にするな」と抵抗にあう。が、下半身が不自由な少年との出会いをきっかけに、車いすバスケットボールを少しずつ普及させていった。自信をなくした身障者たちに「残っているものを最大限に生かせ」と励ました。思うように動けず泣き叫ぶ少年を激励するシーンは感動的だ。

中村医師は1964年の東京オリンピックと同時開催されたパラリンピックの成功に向け奔走した。社会の常識という壁が立ちはだかり、障がい者の家族からも反対の声が上がったが、家族や仲間の支えで、次々と突破。東京パラリンピックを成功に導いた。その後、障がい者自立のための施設を設立するなど、障がい者の社会復帰に尽力した。

障がい者の生活や就労を支える社会福祉施設「太陽の家」(大分県別府市)は、今年10月で開所から56年になる。障がい者の社会復帰と自立に一生をかけた創設者、中村裕医師(1927~1984年)の足跡を振り返る新たな歴史資料館「太陽ミュージアム~No Charity、but a Chance!~」が、昨年7月にこの施設内にオープンした。「太陽の家」には立石電機(現オムロン)も協力させていただいたので謦咳に接したことがあるが、中村医師の献身的な姿は今でも忘れることができない。

中村医師が訴え続けた「保護より機会を」の理念が英文で資料館の銘文に刻まれている―。

幾多の困難を乗り越えてパラリンピックの開催にこぎつけたことは感慨深い。東京パラリンピックの熱戦を観ながら、障がい者スポーツを広めパラリンピックの礎を築いた中村医師の遺徳を改めて思った。

<羅針盤篇65>

■筆者プロフィール:立石信雄 1959年立石電機販売に入社。1965年立石電機(現オムロン株式会社)取締役。1995年代表取締役会長。2003年相談役。 日本経団連・国際労働委員長、海外事業活動関連協議会(CBCC)会長など歴任。「マネジメントのノーベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』受賞。同志社大名誉文化博士。中国・北京大、南開大、上海交通大、復旦大などの顧問教授や顧問を務めている。SAM(日本経営近代化協会)名誉会長。エッセイスト。

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