<コラム>苦労の放浪教育者“孔子”の故郷、曲阜にある魯国故城を訪ねて

工藤 和直    2019年11月13日(水) 23時30分

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魯国故城は山東省曲阜市の市街に広がる周代の国都遺跡、周の武王が紀元前1045年に殷を滅ぼして周王朝を開き、その弟で建国の功臣だった周公旦がこの地に分封され“魯公”を称した。

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魯国故城は山東省曲阜市の市街に広がる周代の国都遺跡、周の武王が紀元前1045年に殷(商)を滅ぼして周王朝を開き、その弟で建国の功臣だった周公旦がこの地に分封され“魯公”を称した。魯は戦国時代、楚に滅ぼされるまで34代・873年余り続き、周の諸侯の国都の中でもっとも長く都として存続した。阜とは丘のことであり、“曲阜”と名付けられたのは隋年間西暦596年のことである。北京から高速鉄道で2時間半程度である。

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魯国故城は東西3.5km×南北2.5kmの長方形で周囲11.5km、城壁の外に30m幅の外堀があった。今も東南・東北・北西の3カ所に当時の版築という工法によって土を押し固めた城壁が残っている。当時の資料では高さ8~10m程と記録されているが、今残るのは5m程度である。西周初年から着工し、中央に宮殿を置き周囲を壁で囲み宮殿の前面に朝廷、後方に市街、左に祖廟、右に社禝という周代の儀礼「周礼」に従って作られた(地図1)。

東・西・南・北に各3カ所ずつ12門があった。大通りは東西に7本、南北に6本(幅は10~15m)あったことが分かっている。周公廟がその中央に位置する。現在の秉礼南路から迎賓大街は南北の中心線である。北門付近から東に約1kmに渡り当時の城壁を確認することができ、北の外堀跡は洙水河となっている(地図1上)。

魯城は前漢後期まで使用され、その後は南西部の4分の1に縮小したが、魯城時の南壁・西壁の一部はそのまま使われた。(地図1)から見るに、現在の城郭(明代)は前漢時代の宮殿の跡地で、春秋の魯国城の一部である。明代嘉靖元年(西暦1522年)に高さ6.6m(2丈)×厚さ3.3m(1丈)の城壁と、堀は深さ×幅とも3.3m(1丈)となった。周囲4kmに5城門が構築され、その中央部に孔廟(孔子廟)や孔府がある。あたかも孔子宅が城内の中央にあるかの様に錯覚する。現在の城門城郭はこの明代の城を改修したものだ。孔廟入り口は仰聖門から入った所にあり、世界遺産登録の石碑があった(写真1)。

孔子(紀元前551~紀元前479)は50歳(天命を知る頃)にして魯の大臣となったが、政局問題で53歳の時に弟子達を連れて諸国巡遊に出た。当時の平均寿命が40歳に満たない時代、非常に過酷な巡遊だったと推測される。67歳で魯に戻るが、苦労の14年間であった。その旅は、魯(曲阜市)→衛(帝丘:濮陽市)→曹(陶丘:定陶県)→宋(商丘)→鄭(新鄭)→陳(宛丘:淮陽県)→蔡(上蔡)→楚(負函:信陽市)と彷徨するが、孔子を受け入れる国はどこもなかった。

衛に5年間、陳に4年間滞在したが、両国においては官位すら得られなかった。孔子の子弟に子路(孔門十哲のひとり)がいる。彼は衛の高官に引き立てられたが、王位争いの中で謀殺された。70歳(矩を踰えず)の時、故郷の魯で教育者として「春秋左氏伝」を編纂したりしたが、決して順風満帆な人生を全うしたわけではなかった。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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