<コラム>安倍首相のご先祖、安倍貞任最後の地「厨川柵」を訪ねて

配信日時:2019年3月7日(木) 23時20分
<コラム>安倍首相のご先祖、安倍貞任最後の地「厨川柵」を訪ねて
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安倍首相のご先祖、安倍貞任最後の地「厨川柵」を訪ねた。
盛岡駅から県道220号線を北上川に沿って北上すると館坂交差点に着く。右に行けば橋を渡り岩手大学、左に行けば秋田街道を西に天昌寺、斜め北西方向に行けば前九年公園に至る。館坂交差点辺りから北部は緩やかな丘になっており、県道220号線をそのまま10分ほど歩くと、右に北上川から垂直10mになる河岸段丘の小高い丘の上にある安倍館遺跡(厨川城)に着く。この周辺は安倍館町と呼ばれる。

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安倍館町は、平安時代末に起こった「前九年の役」の最終激戦地であり、安倍貞任(さだとう)が戦死(敵将源頼義に引き出され息絶えた)した安倍館があった場所になる。「前九年の役」とは、永承6年(西暦1051年)から康平5年(西暦1062年)にかけて、陸奥の豪族安倍頼時とその子貞任・宗任らが起こした反乱に、朝廷が源頼義・義家を派遣して平定させた戦役。後三年の役とともに河内源氏が東国に勢力を築くきっかけとなった。

この安倍一族は、奥六郡(伊沢、江刺、和賀、稗貫、斯波、岩手の6郡)の司であったが貞任戦死後、弟宗任らは九州宗像に配流された。この安倍一族が現在総理大臣である安倍晋三氏の先祖にあたる。又、この安倍一族は北朝鮮北部から旧満州南東部にかけて7世紀に建国された渤海国(ツングース系満州人)を先祖にするとも言われる。

渤海国(西暦698年~926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて存在した。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、新唐書によると「海東の盛国」と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。当初は吉林省敦化市に都城し、黒竜江省牡丹江市に遷都した。

「厨川柵」は非常に広い範囲に存在し、東は北上川、西は諸葛川に囲まれた丘の上にあり、西にある天昌寺前に厨川柵跡擬定地と記されている。館坂交差点を北に緩やかな坂を登ると、右に厨川柵古跡と書いた石塔に遭遇する。戦前に建てられた石碑であるが、この辺りから北に六つの曲輪(東館・中館・本丸・北館・外館・勾当館)が存在する(写真1)。この一帯は鎌倉幕府以降、岩手郡地頭工藤行光が所領した。文治5年(西暦1189年)、源頼朝自身が奥州藤原氏討伐に七軍を率いて平泉を攻め落とし、この厨川柵に1週間ほど進駐した。この時の戦功により、工藤小次郎行光が岩手郡地頭職を賜り、この安倍館に居館を構え、その後400年間支配した。現在見る六つの曲輪は、工藤行光によって構築された遺構である。六つの曲輪は、その周囲を深い堀に囲まれ、本丸跡に「厨川八幡宮」が北上川を見下ろす崖に作られ、横に厨川幼稚園がある。その南の中館に安倍貞任・宗任を慰霊した神社がひっそりと存在する。

秋田街道を西に行くと、天昌寺の大きな伽藍が見えてくる。南側の山門入口から石段を上がり、本堂に入ることができる(写真2)。寺伝によると天昌寺は工藤氏の庇護を受け曹洞宗の寺院となり、岩鷲山と号した。本堂の観世音菩薩は工藤氏の持仏であり、広い墓地には多くの工藤(栗谷川)一族の墓があった。

■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
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