<コラム>日本各地に残る徐福伝説、韓国の済州島にもその足跡が

木口 政樹    2017年5月31日(水) 23時0分

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朝鮮半島の南の海にぽつんとミジンコのように浮かぶ島。これが済州島である。写真は済州島。

島の東南の海辺に西帰浦(ソギポ)という所がある。ミジンコのお腹の辺りだ。ここは知る人ぞ知る、徐福という秦の時代の中国人と非常に関係深い地なのである。徐福というのは、秦の始皇帝の部下で方士(策士とか道士といった意味)だった人。この徐福が済州島を一回りして「西に帰っていった」ことから西帰浦と呼ばれるようになったという伝説がある。

済州島の三大瀑布(滝の意)の一つ正房(チョンバン)瀑布が西帰浦にあるが、徐福一行が滝の美しさに見とれ、しばし足を止めて眺めた後、おもむろに歩き出した。その時、滝の岩肌に「徐市過此(ソブルクァチャ)」という字を刻んだのだが、それが今も残っていることからこの伝説に信ぴょう性を与えているようだ。「徐市過此」とは、徐福がここを過ぎた、という意である。徐市は徐福のこと。ちなみに徐福という人は秦の始皇帝に使える方士であったが、始皇帝の念願であった不老不死の薬を調達してくるよう命令を受け、蓬莱山目指して東へ東へと旅に出る。総勢3000人という人間と、動物や植物や種などありとあらゆるものを船に積んで出発したもようだ。始皇帝の元に帰ることは考えていなかったのかもしれない。民族の大移動、大脱出というほどのものだったのではないだろうか。

徐福一行は、正房瀑布の浜から済州島を後にし、海流に乗って日本の地へやってきたものと考えられている。一行は大船団だった。1つの船に100人乗れるかどうか分からないけれど、100人乗ったとしても30隻だ。いろいろの動植物に食糧、荷物と膨大な量だったろうから、50隻にも100隻にも及ぶ大船団だったに違いない。ある船は九州の佐賀県辺りに上陸し、ある船は瀬戸内海を通って大阪、和歌山辺りへ行き、ある船はさらに東北の方へと、それぞれ散り散りになっていったものと思われる。徐福伝説は、日本の各地に残っている。

これはインターネットで知ったのだが、佐賀県佐賀市の金立神社には、「徐福上陸地」の石碑が立っており、堂の中には徐福像が祭られている。徐福一行がそこを去る時に記念として中国から持ってきたビャクシンの種を植えたというが、それが今も樹齢2200年以上の歴史を刻んで元気な葉をつけているという。神社のご神木でもあるこのビャクシンの木は、日本国内ではここにしかないとされているだけに、この徐福伝説は単なる伝説ではなくて史実ではないかと私は思っている。

ネットの情報からもう一つ徐福伝説を紹介したい。同じ佐賀県の吉野ケ里遺跡。吉野ケ里といえばひところテレビ、新聞で大騒ぎだったから名前くらいは知る人が多いと思う。この吉野ケ里遺跡が実は徐福と深いつながりがあったのである。堂遺跡から発見された絹や人骨などを調べてみたところ、中国との強いつながりがみられ、徐福に同行してきた人たちがここ吉野ケ里に住み着き、一大王国を築いたのではないかと考えられているというのだ。昔、世界史の時間に、徐福という人の名前はなんとなく聞いたことがあるような気がするけれど、その徐福がこうして日本くんだりまで来ていたとは驚きである。徐福は70歳くらいまで生きて富士山の麓で息を引き取ったと言われているが、その頃の徐福についての詳しい記述が、山梨県富士吉田市に保管されている『富士古文書』(宮下古文書)の中にあるそうだ。済州島では徐福の話ばかりになってしまった。徐福はこれくらいにして最後に三姓穴について書いて済州島を後にしよう。

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