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香港ニュースポータルの香港01は9日、「天安門の八つの巨大な宮灯は日本人が設計したのか」とする香港メディアの当代中国の記事を転載した。
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香港ニュースポータルの香港01は9日、「天安門の八つの巨大な宮灯は日本人が設計したのか」とする香港メディアの当代中国の記事を転載した。
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記事はまず、北京の天安門には国慶節(建国記念日)などの重要な祝日になると毎回、巨大な赤い灯籠が飾られるとし、2人の日本人が設計したとする説もあるが本当なのかとした。
記事によると、天安門は今から600年余り前の明の時代に建造されたもので、宮灯製作の伝統技術はそれよりさらに古いものだが、巨大な宮灯が天安門の城楼に吊るされるようになったのは現代になってからで、その始まりは1949年10月1日の「開国大典」だ。
当局は、開国大典に先立ち、天安門広場と城楼の改修と装飾に着手した。設計者らが急いで20枚の略図を作成し、審査のために建国後に国務院総理(首相)に就いた周恩来に提出した。周はその中の1枚を気に入った。それは天安門の城楼の10本の柱の間に八つの大きな赤い宮灯をつるし、その両側に8本の赤い旗を掲げるというものだった。
その設計が誰に手によるものか、明確な記録が残っておらず、後になって、開国大典の美術設計を担当した美術家の鍾靈と書家の張仃によるものと、河北軍区政治部文工団の2人の日本人の小野沢亘と森茂によるものという二つの説が伝えられた。
小野沢と森はどちらも左翼美術家で、当時の年齢は30〜40代。早くから中国に渡って転々とし、中国共産党中央委員会が本拠地とした現在の陝西省延安に至って解放軍に加わり、舞台美術設計などのプロパガンダ関連の仕事に従事した。こうした経歴から開国大典の準備に直接関わったという。
どちらの説がより信ぴょう性が高いのか。最近の国営メディアの記事の執筆者は、当時の映像を基に、張と鍾らが描いた天安門広場の配置図に、小野沢と森が「精細化処理を施した」との見解を示した。
いずれにせよ、開国大典の配置における焦点と難点はいずれも巨大な宮灯の上にあった。なぜならその大きさが前例のないものだったからだ。
小野沢と森らは巨大な灯籠を製作できる職人を探して北京中をくまなく回り、ようやく見つけ出した。宮灯はその大きさゆえに搬送するのが難しいため、職人らは天安門の城楼で製作に取り組むことを余儀なくされた。八つの巨大な宮灯は3日3晩の突貫作業により、開国大典の前日に完成した。
宮灯は高さ2.23メートル、周長8.05メートル、直径2.25メートル、重さ80キロで、その大きさは「3〜4人が中に座ってトランプをすることができる」とも言われるほどだ。(翻訳・編集/柳川)
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