「アジア最高のストライカー」の死を悼む、釜本さんと忘れえぬ67年日韓戦

長田浩一    
facebook X mail url copy

拡大

1960年代から80年代前半にかけて、日本を代表するフォワードとしてサッカー界をけん引した釜本邦茂さんがこのほど亡くなった。

1960年代から80年代前半にかけて、日本を代表するフォワードとしてサッカー界をけん引した釜本邦茂さんがこのほど亡くなった。81歳だった。私のように60年代後半からサッカーを見続けている者にとって、68年メキシコオリンピックで得点王となり、銅メダル獲得に貢献した釜本さんは、アジア最高のストライカーとしてほとんど神のような存在だ。古くからの野球ファンが、やはり先ごろ死去した長嶋茂雄さんに寄せる思いに近いかもしれない。心から哀悼の意を表したい。

メキシコ五輪で得点王

釜本さんを「アジアのサッカー史上、最高のストライカー」と呼ぶと、もしかしたら韓国の方から「イングランドのプレミアリーグで8シーズン連続二ケタ得点のソン・フンミンの方が実績は上だ」というクレームがつくかもしれない。あるいはイランのファンから「国際Aマッチで109得点を挙げたアリ・ダエイを忘れていませんか」と茶々が入るかもしれない。

そもそもサッカーのストライカーとは何か。私なりに定義すれば、頑丈な体躯で最前線の中央に陣取り、ゴールを挙げることを最大の役目としている選手のことだ。釜本さんのプレースタイルはまさにストライカーそのもの。一方でソンは、サイドからの攻撃を得意としており、ストライカーというよりはウイングに近い選手だろう。

一方でダエイは、確かに正統派のストライカーと言える。Aマッチ109得点という実績は、2021年にポルトガルのスーパースター、クリスティアーノ・ロナウドに抜かれるまで、長く世界1位だったことには敬意を表したい。1996年のアジアカップで、イランが韓国を6対2で粉砕した試合をTV観戦したが、この試合でダエイは4得点を挙げ、神がかっていた。その翌年、日本のファンが「ジョホールバルの歓喜」として記憶しているフランスワールドカップ・アジア第3代表決定戦でもダエイは1得点を挙げ、日本にとって最大の脅威だった。しかし、私は全盛期の釜本さんはもっとすごかったと思っている。理屈ではなく、信仰のようなものかもしれないが。

釜本さんのすごさを数字で表すと、日本リーグ(Jリーグの前身)での202得点、79アシストはもちろん、国際Aマッチでの得点数75も日本男子では歴代トップ(女子では澤穂希選手がAマッチで83得点を記録)。釜本さんの現役時代、国内リーグや国際Aマッチの試合数は現在より少なく、その中でこれだけの数字を残したのは大変なこと。そして何より、メキシコオリンピックで7得点を挙げ、得点王に輝いた実績が目を引く。ただ、オリンピックに出場するには、越えなければならない大きな壁があった。その時点で通算2勝7敗3分けと負け越している韓国が立ちはだかったのだ。

小雨の国立、3-3の激闘

メキシコオリンピックのアジア地区予選は、日本、韓国、台湾、南ベトナム、レバノン、フィリピンが参加して、67年9月から10月にかけて東京で集中開催された。1回戦総当たり形式で、1位の国のみがメキシコ行きの切符を手にする。日本と韓国はともに3連勝し、無傷のまま第4戦で激突した。

小雨の降る国立競技場でキックオフされたこの試合、日本は宮本(輝)と杉山のゴールで前半を2-0とリード。しかし後半に入ると韓国が反撃に転じ、後半半ばまでに同点に追いつく。ここで千両役者ぶりを発揮したのが釜本さん。宮本のパスを受けて右45度から強烈なシュートを韓国ゴールに突き刺したのだ。釜本さんは後年のインタビューで「これで勝ったと思った。明日の新聞の見出しは『釜本決勝ゴール』になると思った」と語っている。

ところがそのわずか2分後、韓国は金基福が決めて再び同点に。その後は足の止まった日本を韓国が攻め立てる展開となり、終了直前、金が約25メートルのミドルシュート。「やられたか!」と覚悟した次の瞬間、ボールはクロスバーをたたいてピッチに跳ね返った。日本ゴールのクロスバーには、ボールの跡がはっきり残っていた。

当時小学6年生だった私は、テレビの前で日本代表を応援していたが、このシュートの後、逆転されるのではないかと見ていられなくなり、別室に逃げ込んでしまった。試合はこのまま3―3で終了したが、60年近いサッカー観戦歴で、途中で試合を正視できなくなったのは後にも先にもこの時だけ。この恐怖は、今も強烈な印象として残っている。

もし病に倒れていなかったら…

日本にとって、2点差を追いつかれての負けにも等しい引き分け。しかしフィリピン戦で、釜本さんのダブルハットトリック(6得点)などで15―0で大勝した貯金が物をいい、得失点差で韓国を上回って1位を確保。無事、メキシコへの切符を手にした。本大会で日本は、サッカーではアジア勢初となる銅メダルを獲得。釜本さんは得点王に輝き、その勲章を背負って欧州強豪チームへの移籍など、無限の可能性が広がっているはずだった。

しかし、好事魔多し。釜本さんは25歳になった直後の69年6月、ウイルス性肝炎を発症して長期離脱を余儀なくされた。同年11月に復帰し(復帰戦で見事な直接FKを決めたのをスタンド観戦し、感動したのを記憶している)、その後も長く日本のエースとして活躍したが、病気の影響か、メキシコ当時ほどのすごみを感じなかったのは、私だけだろうか。

釜本さんの訃報に接し、改めて思う。もし、金基福のシュートがもう少し低かったら、銅メダルも得点王もなかったのだろうか。もし肝炎を発症していなかったら、彼はどこまですごい選手になっていたのだろうか。人生は、そして歴史は、本当に紙一重である。

■筆者プロフィール:長田浩一

1979年時事通信社入社。チューリヒ、フランクフルト特派員、経済部長などを歴任。現在は文章を寄稿したり、地元自治体の市民大学で講師を務めたりの毎日。趣味はサッカー観戦、60歳で始めたジャズピアノ。中国との縁は深くはないが、初めて足を踏み入れた外国の地は北京空港でした。

※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

noteに華流エンタメ情報を配信中!詳しくはこちら


   

we`re

RecordChina

お問い合わせ

Record China・記事へのご意見・お問い合わせはこちら

お問い合わせ

業務提携

Record Chinaへの業務提携に関するお問い合わせはこちら

業務提携