劇場版「鬼滅の刃」 無限城編の感想―台湾人心理師

Record China    
facebook X mail url copy

拡大

10日、台湾のポータルサイト・vocusに、台湾の心理師である卓君柔(ジュオジュンロウ)氏による劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来の感想が掲載された。写真は鬼滅の刃。

2025年8月10日、台湾のポータルサイト・vocusに、台湾の心理師である卓君柔(ジュオジュンロウ)氏による劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来の感想が掲載された。

卓氏はまず、「映画館を出た時、同行していた夫に『これはもはやカウンセリング心理学のアニメだ』と言った。作者は人間性に対して深い観察と理解を持ち、心理学への強い関心と学びを積んでいると強く確信した。劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来は7月18日の日本公開から3日間で興行収入55億円を突破し、日本映画史におけるオープニング成績、初日成績、単日成績の3つの記録を塗り替えた。台湾では8月8日に公開され、筆者は翌日鑑賞することができた。これは単に豪華な特撮を駆使したアニメではなく、人間の内面に深く共鳴する作品である」と述べた。

次に、「シェイクスピアは『千人の目には千のハムレットがある』と言ったが、『鬼滅の刃』は『千人の目に千の喪失と渇望がある』と言える作品だろう。同作を鑑賞した後の心のつながりがまさにそうであり、観客それぞれが何かしらの共鳴を呼び起こされる。それは、守られたいと願いながらも無視された幼少期かもしれないし、認められたいと必死に強くあろうとした少年時代かもしれない。映画には不思議な力があり、物語の中に自分の影を見つけ、自分が理解され、受け止められる力を感じさせてくれる」と言及した。

卓氏は、「同作は、華麗な映像と音響、そして現在と過去を行き来する登場人物たちを通じて、心理学における愛着の欲求、信念の支え、信念による支え、仲間の力を語る作品である。また心理師である筆者にとっても、クライアントに寄り添い伴走するときに忘れてはならない人間的な欲求と原点を思い出させてくれる作品であった。スクリーンの光と影の中には、鬼殺隊であれ鬼であれ、さまざまな登場人物の行動の背後には幼少期の経験が潜んでいた。竈門炭治郎(かまどたんじろう)をはじめとする鬼殺隊の回想には、多くの良好な家庭関係や人とのつながりがある。病気や早逝があっても、幼少期に優しく守られた経験があり、その安全感が後に他者を守る土台となり、彼らの『信念』として息づいている」とした。

一方で、「上弦の鬼である猗窩座(あかざ)や獪岳(かいがく)には、幼少期から頼れる者がおらず、早くから大人の責任を背負わざるを得なかった。彼らの記憶には『強者が弱者を守る』という概念や経験がない。そのため、柱や炭治郎が『弱者を守り、他人を大切にする』と掲げても、鬼にとっては自分が最も守られたかった時に守られなかった現実が先に立ち、怒りや否定として返ってくるのだ。しかし運命を決めるのは傷そのものではなく、癒やされる機会があったかどうかでもある」と論じた。

続けて、「猗窩座は師匠と恋人の温もりの中に短い間身を置いたことがある。鬼になった後、その多くの記憶は深く埋もれたが、その優しさは残り、理由は分からぬまま女性には決して手をかけなかった。一方、獪岳は死ぬまで癒やされた経験がなく、師匠や弟弟子の情すら知らぬまま、理解されない愛と尊敬は怨恨に埋もれて消えた。つまり選択とは、多くの場合自由意志ではなく、幼少期のつながりの反響なのだ」と説明した。

また、「同作では、信念の継承がもう一つの重要なテーマとなっている。無限列車編で煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)は母に、人よりも強く生まれたのは弱き人を助けるためだと告げられた。この言葉は杏寿郎の人生の羅針盤となり、彼は最期の戦いで『母上、俺はちゃんとやれただろうか、やるべきこと果たすべきことを全うできましたか?』と問う。目の前に現れた亡き母は、ほほ笑みながら『立派にできましたよ』と肯定した」と紹介した。

さらに、「我妻善逸(あがつまぜんいつ)は決戦後の昏睡の中で亡き師匠に出会い、『お前はわしの誇りだ』と告げられる。その瞬間、長年の自責が崩れ落ち、兄弟子の堕落によって背負った痛みを自ら許し、愛する者を失った悲しみにも慰めを得た。幼少期に受けた大切な人からの言葉や肯定が、後の人生における灯台のようになる。それは私たちの行く道を照らし、また私たちが探し続ける『帰る場所』にもなる」と述べた。

一方で、「猗窩座の物語は悲劇的である。柱たちが信念を抱くのに対し、鬼たちは執念に縛られている。猗窩座の『強くなりたい』という執念は、潜在意識の奥底にある守られなかった過去と、大切な人を守りたいという渇望から生まれた。彼の幼少期において、社会の大人や強者は彼や父親を守らなかった。病の父を看病するため、猗窩座は子どもながら大人の役割を背負ったが、彼を待っていたのは、父親の自殺と社会の大人たちからの罰と追放であった。ようやく訪れた幸福も、孤独だった彼を道場に迎え入れた師匠と、恋人が毒殺されるという形で奪われた。これらの経験が『自分は愛する人を守れない』『自分や他者を守るには強くならなければならない』という思いを彼に刻み込んだのだ」とした。

卓氏は、「鬼になった後も『強くなる』という断片的な記憶だけが残り、他の記憶は心の奥底に封じ込められた。しかし、炭治郎との戦いの中で放たれた一撃が眠っていた記憶を呼び覚まし、彼の優しさをも呼び戻した。彼が追い求めた『強さ』の背後には、父と師匠、そして恋人への愛があった。心理学は、執念は往々にして置き場を失った愛と、終わらぬ悲しみに由来すると教えている」と説明した。

その上で、「猗窩座の戦いは、世界への挑戦ではなく、自分との和解に近いものとなった。彼が攻撃していたのは、まるで『鬼となった自分』だったかのようだ。和解とは忘れることではなく、過去の痛みを認めつつ、自分がもはや『痛みだけ』に生きないことを許すことである。本当の『強さ』とは、拳を握り続けることではなく、武器を置き、愛を執念から解放し、他者へ自由に流すことである」と強調した。

そして、「無限城は、鬼殺隊と鬼たちの戦場であると同時に、人類の集合的無意識のようにも感じられる。そこには人間の欲求、無常、恐怖、そしてトラウマの核心がある。鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)は集合的無意識の中核に潜む心臓のような存在であり、鬼たちは傷を負ったまま停滞している物語の断片のようなものだ。柱たちはそれに直面せねばならず、それは私たちが自らの最も深い傷と向き合わなければ、本当の癒しと自由を得られないのと同じである」と論じた。

卓氏は、「映画館を出る時、強い感情の共鳴を抱えていた。物語は自身の人生経験だけでなく、これまで共に歩んできたクライアントたちの物語とも重なっていた。見られたい、守られたい、理解されたいと願う魂たちが、スクリーンと現実の間で遠く呼応していた。誰の心の中にも、かつて、あるいは今も傷ついている自分がおり、見られたい、守られたいと願っている。過去も現在も、そして未来でさえも、私たちは傍観者ではない。私たちの一つ一つの選択と行動は、自分の運命を書き換えるだけでなく、他者の物語も静かに変えているのだ」と結んだ。(翻訳・編集/岩田)

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

noteに華流エンタメ情報を配信中!詳しくはこちら


   

we`re

RecordChina

お問い合わせ

Record China・記事へのご意見・お問い合わせはこちら

お問い合わせ

業務提携

Record Chinaへの業務提携に関するお問い合わせはこちら

業務提携