<日本人の忘れられない中国>「福原愛」は日中友好に育てられた

日本僑報社    2025年6月14日(土) 12時0分

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よく言われることですが、やはり中国の方は日本の方に比べてはっきりとものを言います。それに最初は慣れませんでした。

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私は1993年テレビの企画で初めて中国・上海を訪れました。当時私は5歳。卓球少女としてテレビに出始めた頃です。その企画は、中国の小学校を訪問し、1日のカリキュラムを体験して、その後小学生たちと卓球の試合をする、というものでした。相手が小学生だったというのもありますが、その頃の私には全く歯が立たず勝つことはできませんでした。それほど強い選手がいっぱいいたのです。

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そもそも私が卓球を始めたのは3歳9カ月の時です。10歳年上の兄が卓球部に入ったのがきっかけでした。兄の入部に喜んだ父が、なんと中国チャンピオンをコーチに呼んだのです。そこから私の卓球人生が始まりました。

6歳から9歳までは天津に行きました。母の作ったルールで、そこの卓球チームの半数に勝てるようになったら省を替えると決めました。天津では9歳頃にチームの3分の2の選手たちに勝つことができるようになったので、省を替え遼寧省に移りました。そこで今のチャンコーチに出会ったんです。チャンコーチは当時遼寧省のチャンピオンでした。

まだまだ現役の19歳という若い選手でしたが、父が惚れ込み頼み込んでコーチになってもらいました。チャンコーチも引き受けるかかなり悩んでらっしゃったようですが、コーチのお母様が占い師に相談したところ、東に行くのが良いと言われ、決めてくださったという事です。いつかその占い師の先生にも、お礼を言わなくてはいけないですね(笑)。

その頃まだ中国語ができなかった私はチャンコーチと筆談で話していました。でも日本と中国の漢字は意味の違うものもあるので、時々「??」ともなりました(笑)。チャンコーチとは24時間一緒で、泊まり込みで教えてもらいました。その結果高校生の時に、外国人として初めて遼寧省のチームに入って、スーパーリーグに出場することができました。

今思えば日中友好に「福原愛」は育てられたのだな、と思います。そんな私が本格的に中国語を喋れるようになった、と思えるようになったのは13歳頃です。私の中で中国語を喋れる、というレベルとして目標にしたのはふたつ。一つ目は電話で不自由しないこと。ジェスチャーがきかない会話で十分に意思を疎通できることです。二つ目は喧嘩ができること。本当に会話の中で感情が動かなければ、喧嘩をすることはできません。そういう意味で言われたことに腹を立てるようになったのはこの頃でした。中国語を勉強されている方の参考になれば幸いです。

それから日本と中国の違いを感じたことについて。日本の卓球選手と言うのは、まず自分の気持ちをいかに切らさず持っていくか、ということが重要になってきます。そしてその選手を皆がサポートしていく、つまり選手が一番大切にされます。しかし中国は違います。中国のスーパーリーグは中国選手たちのトップが争う場ということで、歴代のオリンピックチャンピオン同士が戦うのが当たり前、というすさまじい世界です。よってオリンピックや世界選手権で優勝するより難しいと言われています。

そういった中においては、強い選手が山ほどいるので、自然とサポート側も「あなたの代わりはいくらでもきく」というスタンスになります。つまり中国選手は自分の足で立つという意思がとても強いですし、またそうでなければやっていけません。そこに日中の卓球の違いを感じました。

またよく言われることですが、やはり中国の方は日本の方に比べてはっきりとものを言います。それに最初は慣れませんでした。例えば1年ぶりに会った人に、「太ったね」と言われる。思春期の頃は傷ついて泣いたことさえありました(笑)。だから会話でも「要(いる)」、「不要(いらない)」という言葉がとても重要になってきます。

そんな違いも多い日本と中国ですが、卓球の世界で言うならば、日中の関係はとても深いものがあります。日本の選手団であっても、最低5人は必ずサポート側に中国の方が参加しています。地理的にもそうですが、卓球において日本と中国は切っても切れない関係があるのです。私自身その中で育まれてきました。今度は私が日中関係の橋渡し役になれれば、と思っています。

よく中国の皆さんに「愛ちゃんの中国語は中国人みたい。そのコツは何ですか?」と聞かれますが、その度には私は「我妈是中国人(私の母は中国人です)」と答えています。何故ならチャンコーチは私の中国のお母さんなのですから。

■原題:日中の橋渡し役になれれば

■執筆者プロフィール:福原愛(ふくはら あい) 元卓球選手

1988年11月1日宮城県仙台市生まれ、1990年代から2010年代にかけて活躍した日本の元卓球選手。青森大学・客員准教授。史上初の全日本グランドスラム達成者であり、五輪2大会連続のメダリスト。ITTF世界ランキング最高位は4位(2015年10月)。日本では幼少期からテレビなどマスメディアに頻繁に登場し、「卓球の愛ちゃん」「天才卓球少女・愛ちゃん」「泣き虫・愛ちゃん」などと呼ばれ、国際大会で活躍するようになってからは中華圏で「小愛」(シャオアイ)や「瓷娃娃」(ツーワーワー)などと呼ばれ親しまれている。その注目度から、内閣府「災害被害を軽減する国民運動サポーター」、中国などとの間の様々な親善大使、出身地である仙台市の観光大使、CM出演なども務めてきた。2018年10月、現役引退を表明した。

※本文は、第7回忘れられない中国滞在エピソード「中国で人生初のご近所付合い」(段躍中編、日本僑報社、2024年)より転載したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。


※本記事はニュース提供社の記事であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。すべてのコンテンツの著作権は、ニュース提供社に帰属します。

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