<戦後80年>かつての軍港・引き揚げの地、舞鶴を歩く=中央アジアとの奇縁に感銘

長田浩一    2025年6月4日(水) 7時30分

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京都・舞鶴を訪ねた。舞鶴は戦前から戦中にかけ、国内有数の軍港でもあった。その地で見たこと、感じたことをつづってみたい。写真は舞鶴のれんが倉庫群。

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今年は戦後80年。若い人には遠い昔の歴史上の出来事かもしれないが、父が4年間シベリアに抑留され、母から東京空襲の話を聞いて育った私にとって、先の大戦はかなり身近な存在だ。5月末、父が抑留から帰国した際に初めて故国の土を踏んだ土地、京都・舞鶴を訪ねた。舞鶴は、戦前から戦中にかけ、国内有数の軍港でもあった。その地で見たこと、感じたことをつづってみたい。

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通りに旧海軍戦艦の名

江戸時代には静かな農漁村だったという舞鶴には、1901年に鎮守府が設置され、以後、軍港都市として発展した。鎮守府とは、所管地域の防衛を担当する海軍の官庁のことで、横須賀、呉、佐世保にも置かれた。舞鶴港は、リアス式海岸である舞鶴湾の最深部に位置しているため、波の静かな天然の良港であるとともに外海からは攻めにくく、それも鎮守府が置かれた理由の一つだろう。日露戦争(1903~04年)直前のこの時期に舞鶴に設置されたのは、ロシアとの緊張激化が背景にあったと思われる。

それから120年余り。現在の舞鶴の中心に近い東舞鶴駅を降りると、駅前の家電量販店が目立つ程度で、ありふれた地方都市のように見える。しかし、すぐにかつての軍港都市の名残を見つけることができる。まず、街路が碁盤の目のように整然と整備されている。これは有事の際に物資や人員の輸送を迅速に行うためだろう。そして、駅から海に向かって歩いていくと、交差する通りは順に「三笠通り」「初瀬通り」「朝日通り」「敷島通り」と命名されている。ピンとくる方もいるだろう。三笠、初瀬、朝日、敷島は、いずれも日露戦争当時の主力戦艦の名称。初瀬を除く3艦は、ロシアのバルチック艦隊を粉砕した日本海海戦でも活躍した。舞鶴市によると、周辺部の通りにも巡洋艦や駆逐艦の名前が命名され、艦船名のついた通りは全部で32に達するという。日本のすべての都市を知っているわけではないが、このように旧海軍の軍艦の名が現在も街路名として使われているのは舞鶴だけではないか。


港に近づくと、さらに分かりやすい軍港都市の遺産が見えてくる。現在の市役所周辺に密集する赤れんがの建物群だ。これらは旧海軍が事務所や倉庫として建設したものだが、戦後は市役所の物置として使用される程度で、持て余していたらしい。上杉和央「軍港都市の150年」(2021年吉川弘文館)によると、市役所の職員らは「幽霊が出そうな汚い倉庫」と敬遠していた。しかし1980年代以降、貴重な近代化遺産として保存すべきだという提言がなされて倉庫群の整備が進み、ライトアップなども行われるようになった。現在では、赤れんが博物館や市政記念館などを含む赤れんがパークとして、舞鶴観光の目玉の一つとなっている。

引揚記念館を訪ねて

太平洋戦争の終結時、海外に取り残された日本人は660万人と言われ、彼らの速やかな帰国(引き揚げ)を実現することが当時の最重要課題だった。特にソ連に抑留された旧軍人の帰国はなかなか進まなかった。舞鶴港は政府から帰国日本人の受け入れ先に指定され、特に1950年以降は唯一の引揚港として使命を果たした。そうした歴史を伝えるため、1988年に市の郊外に舞鶴引揚記念館が設立され、2015年にはシベリア抑留に関する収蔵資料の一部がユネスコの世界記憶遺産に登録された。

個人的な話で恐縮だが、陸軍125師団所属の伍長だった私の父は、終戦直後に満洲でソ連軍に拘束され、4年間、ハバロフスク近くの収容所で抑留生活を送り、1949年に舞鶴港に帰国した。当時の状況を父は話したがらなかったが、過酷な労働、飢餓、寒さに耐える大変な4年間だったことは想像に難くない。今回舞鶴を訪れたのは、記念館を見学したり、帰国時に目にしたであろう舞鶴の景観を眺めたりすることが、ささやかながら父への供養になると思ったからでもある。

東舞鶴駅からバスに揺られること15分ほどで、舞鶴引揚記念館に着く。ここには抑留の実態を伝えるさまざまな資料が展示されている。手作りスプーンなどの食器、薄っぺらな防寒着、共産主義教育の一環として発行されていたガリ版刷りの新聞…。10畳ほどのスペースに収容所の内部を再現した抑留生活体験室では、硬くて狭い木製の寝床に横になったり、極寒を耐えた衣類に触れたりして、過酷な抑留生活の一端を体感できる。

舞鶴引揚記念館

記念館の裏には小山があり、なだらかな坂道を登ると、引揚者を受け入れた当時の港を見下ろす展望台に出る。展望台から舞鶴湾を眺めて改めて感じるのは、濃い緑の丘陵と波の静かな海が織りなす風景が、実に穏やかで優しいということだ。記念館に「舞鶴の松の緑に色映えて 海の青さに涙こぼるる」という短歌が紹介されているが、シベリアの過酷な環境のもとで数年を過ごした抑留者は、故国のこの優しい風景を目にして、帰国の感動を新たにしたのではないだろうか。

ウズベキスタンとの絆

第二次世界大戦のドイツとの戦いで2700万人もの死者を出したソ連は、労働力不足の中で戦後復興を果たすため、ドイツ人や日本人の捕虜を長期にわたり拘束して強制労働に従事させた。日本人は約60万人が抑留され、このうち1割が帰国を果たせず亡くなった。記念館のエントランスには、ユーラシア大陸の大きな地図があり、日本人が抑留された場所が丸印で示されている。ハバロフスクなどシベリア極東部はもちろん、モンゴルや中央アジアのウズベキスタンやカザフスタン、さらには遠くウクライナにも日本人が収容されていた事実に驚く。

記念館の展示によると、ウズベキスタン(当時はソ連を構成する共和国の一つ)に移送された日本人は約2万5000人。このうち約500人が、首都タシケントでナボイ・バレエ劇場の建設に携わった。同劇場は1947年に完成。1966年にタシケントを大地震が襲い、多くの建物が倒壊したが、同劇場はほとんど被害を受けることなく存続した。このため日本人の仕事ぶりを称賛する声が高まり、それがソ連崩壊後も親日感情という形で現在に引き継がれているという。2020東京オリンピック(コロナ禍のため実際の開催は21年だが)のウズベキスタン選手団のホストタウンに、抑留者の帰国港だった舞鶴市が選ばれたことを記念館の展示で初めて知り、同国との絆がこういう形で受け継がれていることに感銘を覚えた。

戦争捕虜を戦後も長期にわたり抑留し、強制労働に従事させることが国際法上も人道上も許されない暴挙であることは言うまでもない。とはいえ、抑留がきっかけで生まれたウズベキスタンとの良好な関係は、舞鶴市に限ることなく発展させていきたい。舞鶴湾の静かな海を眺めながら、そう願った。

■筆者プロフィール:長田浩一

1979年時事通信社入社。チューリヒ、フランクフルト特派員、経済部長などを歴任。現在は文章を寄稿したり、地元自治体の市民大学で講師を務めたりの毎日。趣味はサッカー観戦、60歳で始めたジャズピアノ。中国との縁は深くはないが、初めて足を踏み入れた外国の地は北京空港でした。

※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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