台湾で発達した「中華ポップス」の軌跡をたどる―現役プロデューサーが紹介

中国新聞社    2024年1月28日(日) 12時0分

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台湾人ミュージシャンとしては、テレサ・テンやジェイ・チョウがよく知られる。彼らを産み出し、彼らが育んだ中華ポップスとは、どのような音楽なのだろう。

中国の一般大衆が初めて接触した「西洋風音楽」は、近代化によって登場した「学堂」と呼ばれた学校で歌われた「学堂楽歌」だった。「学堂楽歌」の果たした役割は、日本の文部省唱歌によく似ている。中国では1930年代に、「東洋一のモダンな都市」になった上海で、多くの流行歌曲が登場した。大衆音楽の中心はその後、香港、さらには台湾に移っていった。台湾は一時期、「中華系大衆歌曲」をリードする土地だった。台湾の「大御所作詞家」として著名な荘奴氏(本名:黄河)の息子で、自らは音楽プロデューサーとして活躍する黄浩然氏はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材を受けて、台湾などにおける中国の近現代の大衆音楽の状況を説明した。以下は黄氏の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

大衆音楽の発信拠点は、上海から香港、台湾へと移動

20世紀初頭の中国では、救国を念頭に教育に取り組む人が出現した。彼らが採用した「学堂楽歌」が、中国の新しい音楽の先駆けになった。「学堂楽歌」には五線譜でなく数字譜が使われた。この数字譜は初等教育での使用を念頭に欧州で考案されたものだが、日本の明治政府が採用して改良し、中国に伝わった。「学堂楽歌」の旋律は、日本や欧州、米国の曲を利用し、それに中国語の歌詞をつけた。「春遊」「送別」「念故郷(故郷を思う)」などの曲は今も歌い継がれている。

1930年代の上海では、映画産業と結びついて音楽娯楽産業が勃興した。西洋のジャズやクラシック音楽、さらに中国風の旋律を融合した、まさに「時代の曲」が続出した。代表的な作曲家には黎錦暉、賀緑汀、劉雪庵、聶耳、洗星海、陳歌辛などがいる。成功した歌曲は、その後も新しい時代に合うようなアレンジをほどこしつつ、歌い継がれている。代表曲には「何日君再来」や「夜来香」などがある。


1950年代から70年代にかけて、大衆音楽の中心地は香港に移った。香港で作られた歌曲は、それまでの映画関連曲の蓄積に、さらに東南アジアの華人社会の雰囲気や広東の文化が追加された。

台湾では1949年前後に、大陸から大量の軍の音楽関係者や民間の音楽家が渡ってきた。彼らは台湾に「学堂楽歌」や上海や香港の音楽を持ち込んだ。約10年間は音楽文化も厳しい統制下にあったが、その後は台湾の地元の音楽も融合した。台湾の大衆音楽は1960年代から70年代にかけて、映画やテレビ関連の音楽が市民権を得て、全面的な発展期に入った。

極めて多くの要素が溶け込んだ台湾歌曲

台湾の大衆音楽はその時期に日本の演歌、福建省の歌、さらに先住民族の歌、西洋のポップスの影響も受け、極めて多くの要素が融合することになった。また、社会が安定して市場のニーズが高まったこともあり、台湾独自のポップスが発展しはじめることになった。

台湾初のテレビの歌謡バラエティー番組の「群星会」の放送開始は1962年だった。この番組で活躍して大人気を得た歌手の一人に、テレサ・テン(1953-95年)がいる。また、この時期には著作権などの知的財産の扱いについての法や制度の整備も進んでいった。

台湾の大衆音楽の市場は台湾だけでなかった。香港も重要な市場であるし、東南アジアにも多くの華人が住んでいる。台湾では、大衆音楽について「中華文化とは何か」との問いかけがなされ、さらに華人全体を念頭に置くことで音楽文化の国際的な融合も進んだ。このことで「華人大衆音楽」の良好な基礎が形成された。

台湾は1980年代に、世界に向けて発展する好機を迎えた。経済、文化が高度に国際化し、ポップス産業が盛んに発展した。さまざまなレコード会社がブランド力を獲得していった。台湾の当時の人口は2000万人余りだったが、LPレコードは正規版だけでも100万枚を売り上げることができた。そのため国際的なレコード会社も台湾市場に関心を持った。また、改革開放を始めた中国大陸市場も大いに注目された。国際資本や著作権管理機構が動き、中国語ポップスを歌う台湾の人材は創作と発展のチャンスに恵まれることになった。台湾ではこのようにして1990年代から2000年代にかけて、音楽産業の「大爆発」が発生した。この時期に頭角をあらわした音楽家の代表としてはジェイ・チョウ(周杰倫)などがいる。

2000年代はインターネットが急発展した時代でもあった。音楽情報の取得は、それまでとは比較にならないほど容易になった。大衆音楽については世界全体で、「流行が常に移り変わる」現象が発生した。音楽作品も「消費の対象」という傾向が強まった。つまり、個別の分野が「練り上げられる」状況が発生しにくくなった。中華ポップスもその影響を免れられなかった。

台湾ではその後、台湾を特別視する風潮が強まった。ある意味で「自己疎外」とも言える現象だ。あるいは「自己愛の高まり」とも言える。台湾の音楽には今も多くの要素があるが、「異なるものを見出すための国際的視野」は不足するようになった。これが、台湾の音楽がより大規模な市場をリードできなくなった原因だと思う。

中国の豊富な古典文学は中華ポップスにとっての巨大な財産

中華ポップスの独特な雰囲気は中国語の特徴に由来すると考える。中国語の歌詞は漢字を並べることで構成するわけだが、通常の会話では2文字の言葉でも、歌詞にならば1文字だけで表現しても不自然ではない場合も多い。しかも、同音の漢字が多いので、歌詞に二重の意味を持たせやすい。韻を踏むこともできる。そのことで、旋律の感情表現やムードに合致する歌詞を多様に組み合わせることができる。これは全世界を見ても中華ポップスの独特な特徴だ。

さらに、中国には伝統劇や詩、それ以外の古典など極めて豊富な「言語文化の財産」がある。そもそも、中国の古典中の古典である「詩経」は本来、歌の歌詞だった。宋代に大いに創作された詩の一種の「詞」も、当時は旋律に乗せて歌われる作品だった。そのため、かつての旋律は失われたが、今も歌詞として旋律に乗せやすい特徴がある。中華ポップスには、これらの古典を利用できる強みもある。例えば、台湾人作家の瓊瑤とミュージシャンの林家慶が共作した「在水一方」には「詩経」からの引用がある。直接の引用でなくても、台湾歌曲の多くには、昔から変わらない中国の美的感覚と、独特のロマンが込められている。


先ほど述べたように、中華ポップスはインターネットの普及で長期的な視野に欠けるようになり、資本の力にのみ支配されるようになったとする指摘がある。が、私はそれほど悲観してはいない。中国人が自らの民族と文化の自信を強めたことは、とりわけ重要だ。中華ポップスの新時代は、始まったばかりと言える。

中華ポップスをさらに発展させるためには、文化の古い由来を知ることが必要だし、美意識についての教育も必要だ。一般大衆の教養を向上させ、創作作品を蓄積し、市場の混乱を防止し、新しいメディアを融合させた新たな世代のための音楽文化を育てねばならない。新たな事象は多いが、このことはまさに「中華の音律の文脈」を継承することだ。

それから中華ポップスの「根」は中国の古い伝統にだけあるのではない。例えば、テレサ・テンの大ヒット曲の「甜蜜蜜」は、インドネシア民謡の旋律に基づく。この曲では、各国語のバージョンも出現した。このような名曲は、映画やテレビ産業のように大規模な投資がなくても、人々の心に刻まれて、代々歌い継がれていくことになる。

中華ポップスの真髄は、歌詞の境地と中華文化にあるロマンチックな思想にある。大切にせねばならないのはまさに、この精神性であり、ビジネスとしての音楽制作や歌唱技術が偏重されてはならない。私の考えでは、あくまでも精神性を尊重しないようでは、本末転倒の状况になるはずだ。(構成 / 如月隼人

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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