空海が日本に持ち帰ったものは何だったのか―真言宗の高僧が改めて紹介

中国新聞社    2024年1月16日(火) 22時30分

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空海は唐から日本に仏教やその他の文化を持ち帰った人物としてあまりにも有名だ。しかし空海は、唐で具体的に何を見聞きし、何を持ち帰ったのだろう。写真は空海が密教の修行をしたとされる、西安市にある青竜寺。

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空海は唐から日本に仏教やその他の文化を持ち帰った人物としてあまりにも有名だ。しかし空海は、唐で具体的に何を見聞きし、何を持ち帰ったのだろう。高野山真言宗の静慈円(しずか・じえん)前官はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、空海について説明した。以下は中国新聞社掲載の記事にもとづいて、再構成してものだ。

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空海が長安に至った道を実際にたどる

私は1961年に高野山大学に入学して以来、弘法大師、すなわち空海を研究してきた。空海は31歳で唐に渡り、33歳で帰国した。空海を知りたければ、最も重要なことの一つは、彼が中国で学んだことを知ることだ。

空海は774年に讃岐の国、現在の香川県に生まれた。俗名は佐伯真魚(さえきのまお)だ。18歳で儒学を教授する大学寮という機関に入ったが、ほどなくやめた。その後、山や川や野原を渡り歩き、苦行をしながら奈良の各寺院に参学して仏法を学んだ。24歳の時には「三教指帰」を著し、儒教・仏教・道教の3教を論じ、その後に出家した。当時の日本では主に儒学が推奨されていたが、空海は3教のいずれについても研究した。空海は、儒教、道教、仏教はいずれも聖人の教えだとした上で、仏教はより「広大で深遠」なので、大学寮を出て仏教を研究したと記述している。そのため、空海を知るためには「三教指帰」を読む必要がある。

空海が唐に渡った主な理由は「大日経」を読み解くためだった。空海は奈良の久米寺で密教の根本経典の一つである「大日経」に出会い、密教に強い関心を持つようになった。当時はこの経典が日本に伝わってしばらく経過した時期であり、空海は大日経の最初の部分は理解できたが、読み進むにつれて分からないことが増えていった。

そして西暦804年、空海は遣唐使とともに唐に入った。途中で海の嵐に遭って九死に一生を得るといった苦難を経て、福建省の赤岸鎮に漂着した。上陸後も苦しい旅を続けて唐の都の長安に到着した。空海は長安で、密教の高僧で指導者である「阿闍梨(あじゃり)」という称号を持つ恵果和尚に出会い、密教の灌頂伝法を受け、密教の法脈を受け継いだ。806年に日本に帰国した際には、大量の仏教経典だけでなく、詩や書などの中国文化の資料を持ち帰り、その後の日本に深い影響を与えた。

空海は816年に真言宗の根本道場である高野山を開いた。奈良時代の仏教は「華厳経」、「法華経」などの経典を土台にしていたが、空海はそれを読んだ上で「曼荼羅(まんだら)」という思想にまとめた。言い換えれば、当時の日本の仏教思想を総合して、非常に包摂的な思想を創造したことが、空海の日本仏教への貢献だったと思う。

先ほども述べたように、私は空海が修行する上で最も重要な出来事の一つが、唐に入って法を求めたことだと思っている。このことを理解せねば空海を理解することはできない。そして、空海のかつての入唐の道のりを探求している人がいないことには驚いた。今から40年近く前のことだ。1984年は弘法大師が入定されてから1150年だった。私は当時の中曽根康弘首相を通じて、空海大師をしのぶために、その入唐の道を再び歩む計画を中国政府に提出した。中国側は、空海は日中友好の懸け橋であるとして、私の申請に同意した。この道は2400キロにも及んだ。私は現代の中国の地図を基に、西暦804年の空海の入唐の経路を研究し、「空海入唐の道」を描いた。その後の数十年間も、この道を何度も往復した。

当時の日本になかった文献を大量に持ち帰る

日本は遣隋使、遣唐使などを中国に派遣することを通じて、中国文化を学んだ。日本人は漢文で書かれた中国の歴史や文化、宗教の中国の典籍を呼んだ。当時の日本には空海ほど、中国の典籍に通じていた人はいなかった。中国の典籍は空海の人文的素養と性格を構成し、空海は漢文の典籍を素材にして、自らの思想を構築した。

空海が帰国したのは33歳の時だった。空海は中国で収集したすべての書物を記載した書物リストを朝廷に提出した。空海が持ち帰った書物は仏教経典だけでなく、史書や医学書など当時の日本にはまだなかった文献があった。

嵯峨天皇(在位:809-823年)は中国文化を深く研究し、漢詩など唐の文化にあこがれを抱いた。空海は唐から徳宗皇帝(在位:779-805年)や欧陽詢(557-641年)の真筆、「古今文字讃」や「古今篆隷文体」などの書の古典的な理論書を持ち帰った。空海はこれらを嵯峨天皇に献上した。

空海研究には「唐から得たもの」をさらに知る必要が

空海は書の分野でも卓越した才能を示した。日本には今の空海の真筆である「風信帖」や「聾盲指帰」が残っている。

空海の書は独特だ。だが、空海が自らの能力だけに頼ってその書風を確立したと考えるのは、むしろ不自然だろう。中国には書道理論を論述する古典的な著作が多くあった。例えば梁代(502-557年)の活躍が知られる庾元威(生没年不詳)の「論書」、南朝の宋代(420-479年)の王愔(生没年不詳)の「文字志目」、唐代の韋続(生没年不詳)の「墨藪」などだ。当時の日本人で、これらの書を読む機会があった人はいなかった。しかし空海はこれらの文献を熟読し、その奥義を理解した。空海の書を理解するには、これらの典籍を合わせて分析する必要がある。

それ以外にも、空海が唐から持ち帰ったとされるものは多くある。ただし、例えば空海が日本にもたらしたとの言い方のあるうどんや豆腐については、空海自身が著書の中で言及しているわけではないので、空海が持ち帰った食品なのかどうか、私には分からない。ただし、空海は著書の中で茶については言及しているので、唐代の茶文化の日本への伝来に貢献したと考えてよい。(構成 / 如月隼人




※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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