中国とエジプトの古代文明は何が同じで何が違ったのか―双方を熟知の専門家が紹介

中国新聞社    2024年1月8日(月) 19時30分

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エジプトのメンチュ神殿遺跡の発掘調査に携わった経験もある中国社会科学院考古研究所世界考古研究室の賈笑氷主任が、自国とエジプトの古代文明について説明した。写真はメンチュ神殿遺跡。

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エジプトも中国も古い文明が栄えた地だ。古代エジプト文明と古代中国文明にはもちろんながら、共通点も異なる点もある。中国社会科学院考古研究所世界考古研究室の賈笑氷主任はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、エジプトとの共同調査で中国側責任者を務めたことがあるメンチュ(モンチュ)神殿遺跡を切り口に、エジプトと中国の古い文明の紹介や比較を披露した。以下は、賈主任の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

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古代エジプトでもとりわけ重要な神だったメンチュ神/h2>

エジプトのルクソールにあるメンチュ神殿遺迹は新王国時代のアメンホテプ3世の統治時代(紀元前1391-同1353年ごろ)に建てられた。メンチュ神はもとはテーベ(現ルクソール)地方の古都のアルマントの神だった。そして、エジプトの宗教体系で最も重要な神の一つになった。

メンチュ神に関する最古の記録は古王国時代の第6王朝(紀元前24-同22世紀ごろ)にさかのぼる。エジプトは、古王国が衰退した後の紀元前21世紀末ごろに混乱した第1中間期を迎えた。その後、テーベ出身の第11王朝のファラオ(王)のメンチュへテプ2世がエジプトを再統一した。ファラオらはメンチュ神には強力な加護の力があると信じていたため、多くのファラオが「喜ぶメンチュ神」を意味する「メンチュへテプ」と名乗った。メンチュ信仰のピーク期だ。しかし紀元前20世紀から紀元前18世紀の第12王朝には、アメン神への信仰が盛んになり、メンチュ神の首都テーベの主神としての地位は取って代わられた。しかし紀元前16世紀ごろに始まる新王国時代にもメンチュ神を形容する「テーベの主」の言葉は残った。メンチュ神は勇猛な戦神とされていた。

現在のメンチュ神殿跡は日干しれんがの塀で囲まれた四角い区域にあり、この区域はメンチュ神殿以外にもマアト神殿、ハプラ神殿、聖なる湖、北の大門、六つのオシリス神殿など、メンチュ神殿を含む宗教的建造物群だ。

メンチュ神殿跡、より正確にはメンチュ神殿跡遺跡群の建築群は新王国時代に建設が始まり、プトレマイオス朝時代(紀元前305年-同30年)になってようやく現在の規模と配置になった。敷地の塀と一部の建物の基礎が日干しれんが建築であることを除けば、建築材料はすべて砂岩質だ。神殿や神殿の外壁面には、ファラオや巫女が太陽神アモンやオシリスに供え物を捧げる様子や関連する象形文字が描かれていることが多い。

違いの原因は自然条件と思想の双方

古代エジプトの宗教的建造物の多くが石で作られたのは、エジプト人は石の建物の方が永続的で、神への敬意を示すことができると考えたからだ。また歴代ファラオは、石造の建物に自分と関係のある絵や銘文を彫ることで、自らを後世に伝えられると考えた。

中国の同時期の建築はすべて土と木で作られており、違いは大きい。一方で中国の古代の建設は、都市計画でも個別の建築物でも線対称の配置を重んじた。高級な建物や宗教関係の建築は特にそうだ。中心軸が存在し、北座して南面する構造だ。しかしエジプトの建築は、対称性をさほど重視していない。個別の建築物には線対称に構築されていても、建築群全体としては対称の概念が導入されていない。建物の向き、特に神殿の場合には向きがナイル川との位置関係で決められる。神殿には人工による水路がナイル川とつながっていることが多く、祭事に神像を乗せた聖なる舟を通しやすくすることが大切だった。

中国の伝統建築が線対称の配置を採用したのは、中国伝統文化の中の「執中」、つまり中庸とその実践を重視する思想と関係がある。中国の古代哲学では天人合一つまり大自然と人の融合やバランスの観念が強調されており、これらの思想が建築の中で体現された。また、中国の古代建築は美を重視し、簡潔、大気、重厚、優雅な風格を追求した。北座南面であれば陽光を十分に得て冬の北風にも耐えることができた。自然現象を正しく認識し、天の道に順応することが重視された結果だった。

一方でエジプトの古代建築は、自然環境に大きく左右された。ナイル川の両岸の広くない範囲内でのみ神殿類建築を建てることができ、さらにナイル川は曲がりくねって北流する。神殿とナイル川を結ぶ人工水路はナイル川の流れに対応方向を決めるしかなく、神殿の向きは人工水路の配置に基づいて決めるしかなかった。

「神権」から「王権」への流れは同じでもその後に違い

メンチュ神殿には古代エジプト文明の発生発展過程における神権と王権の結合が反映されている。王権が神権の力を借りて強化されたことは、中華文明の初期の起源とその発展に極めて類似している。

中国の著名な考古学者の張忠培氏は、「中国社会の発展について深く考えた結果、先に神権があり、後に王権があると分かった」、「神権が王権の発展を推進した」と述べた。初期の王権は確立後も、神権の助けが必要だった。つまり王権は神権を通じて正当性と合法性を獲得し、民衆の精神を支配し、社会の統合や統治の強化を容易にした。同じ信仰を持つことで、人々の自らが属する集団への帰属心を強めることができた。

中華文明の形成には、多元から一体への進化過程が存在する。各地域の先史時代の文化はそれぞれの特徴を形成した。その後は各地域の文化が交わり、思想面の共通性を次第に形成した。この共通性は絶えず豊かになり、絶えず強化された。多くの支流が合流して1本の大河になるような状況だ。このような状況は現在まで続いている。社会に新たな状況が出現することは、前の時代との断裂ではなく、継続しつつの飛躍だった。こうして中華民族の精神が形成された。

エジプト文明にも「多元と一体」の形成過程が存在した。しかしこの過程は、より多くは武力による打倒により成し遂げられた。新たに勃興した文化が、既存の文化を消滅する方式だった。そのため、一体化の過程の中で中核となる思想と特質は形成されなかった。

中国とエジプトの文明の比較を通じて分かるように、人類運命共同体の構築には、中華文明の多元的な一体の形成過程、すなわち文明の相互参照や融合、往来がより必要だ。まさに各民族の異なる文化の共生と交流が、光り輝く人類文明を創造するのだ。世界各国の前途と運命が緊密につながっている今の時代において、文明の交流と相互参照を深めることは、隔たりと誤解を解消し、民心の相互理解を促進する重要な道であり、人類運命共同体の文化の根幹を固めるための土台だ。人類運命共同体の構築は「文明の交流で文明の隔たりを超え、文明の相互学習で文明の衝突を超え、文明の包容により自らの文明の優越を信じる思想の限界を超える」必要がある。

人類の文明の系譜を知るには、まずは科学的、系統的、そして微に入り細に入った考古学の発掘作業が必要だ。さらに学際的な総合研究を強化する必要がある。自然科学の手段でより豊富な古代文明情報を獲得し、哲学社会科学の理論で解釈の枠組みを構築し、物質文化史を通じて人類社会の発展過程を解読し、人類文明の思想世界の発展の過程を解釈し、古代文明の核心に迫らねばならない。その核心的価値に基づきつつ保護計画を制定し、保護の過程において、人類文明の核心的価値を体現し、そのことによるいにしえを知り、今を鑑みる意義を持たせるのだ。

それらを示すことで、現在の世界の人々には古代文明の輝きに驚嘆していただき、そのことで人々が異なる文明に内包された人類の思想を味わうことができるようになる。(構成/如月隼人



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