フビライの時代から人々を見守ってきた「白い塔」の物語とは―管理関係者が紹介

中国新聞社    2024年1月1日(月) 23時0分

拡大

元のフビライ帝が建設を命じた北京市内の「大白塔」を手掛けたのはネパール人技術者だった。この塔はどのような物語を秘めているのだろう。

(1 / 2 枚)

北京市内には、ネパール式の仏塔が2基ある。いずれも白色で、うち1基は北海という池の島にあり「小白塔」と呼ばれ、もう1基は市内西城区の妙応寺にある「大白塔」だ。妙応寺はすでに寺としては機能していないが、「白塔寺」と呼ばれる場合もある。「小白塔」は清代の順治8年(1651年)に建てられた。「大白塔」はさらに古く、元代の1279年に完成した。北京市白塔寺管理処の顧瑩副主任はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、「大白塔」の歴史の背景や意義、さらに現状について紹介した。以下は顧副主任の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

その他の写真

壊れた塔を全く別の塔として再建したのは元のフビライ帝

元は北京の地を中国全国の首都にした最初の王朝だ。北京は元代(1279-1368年)には大都と呼ばれた。そして現在まで残っている元の大都の完全な文化遺跡は「大白塔」だけだ。

「大白塔」の歴史は遼(916-1125年)にまでさかのぼる。元代の僧侶の記録によれば、遼代には「大白塔」の場所に永安寺という寺があった。しかし戦火により破壊され、壊れた仏塔だけが残った。大都を都に定めた元のフビライは、この仏塔がしばしば不思議な光を放つと聞き、調べさせたところ、内部に舎利が納められていることが分かった。フビライは、この塔の場所に、新たにチベット仏教式の仏塔を立てるよう命じた。

塔の設計と建造を担当したのは、元朝に使えていたネパール人技術者のアニゴだった。塔が完成したのは1279年で、「元史」は、「京城、これにより生輝す」などの記述がある。その後、塔を中心にして寺が作られ「大聖寿万安寺」と名づけられた。

元代末期の1368年に大聖寿万安寺は落雷による火災のために焼失したが、塔だけは残った。明代の1433年に塔は補修され、1457年には寺も再建され「妙応寺」と改めて命名された。清代の1688年と1753年には塔を含めて「妙応寺」の大規模な補修が実施された。

整備されたことで、北京市屈指の「ばえるスポット」として人気

「妙応寺白塔」は1961年に、第1次全国重点文物保護単位(日本の重要文化財に相当)に指定された。1972年は白塔の機能の「転換点」だった。当時の周恩来首相は「ネパールの技術者がわれわれのために建築した西城の白塔寺を整備する。寺ではなく史跡として扱い、観光に供する」と決定した。

当時の妙応寺は、境内にも商店や人家が軒を連ねる状態になっていた。寺に付属する建物に住みるいている人もいた。北京市は1997年に敷地内の商店を取り壊し、住民を移転させる措置に着手した。本来はなかった建物はなくなり、本来はあった山門と鐘鼓楼は「元の場所、元の姿」の原則により復元された。こうして妙応寺は、「公共の憩いの場」として再生した。

北海公園の小白塔と比べると、妙応寺の白塔は「ずんぐり」した形だ。専門家からは、アニゴの設計ではく、その後に塔体にレンガの層が追加されたの可能性があるとの指摘があった。2013年5月から15年11月にかけての補修工事では、外壁にはレンガや石が1層以上追加されていたことが確認された。妙応寺の白塔の、ややぽっちゃりとした「萌(も)える」姿は、古人が補修を続けたからこそ出現したと言えるかもしれない。


「大白塔」は北京市西城区の文化のランドマークだ。国は近年、文化財の保護と歴史文化の伝承に力を入れている。西城区は、白塔寺とその周辺の地元の強みを生かして特色ある文化街、すなわち「白塔寺歴史文化保護区」を整備している。具体的には、北京の独特な胡同(横丁)や四合院住宅の雰囲気や、本来の居住機能や属性を維持したまま、建物の外観を整備して、文化を強く感じられるようにしている。とてもよい効果を発揮しており、歴史や文化が反映された街の生活様式を維持しつつ、現代的な都市生活を実現することになった。

流行の「シティーウオーク」でも、白塔寺は人気のスポットだ。街の景観そのものもそうだし、白塔をバックにすれば、この上なく「ばえる」ということで、大勢の人が撮影をする。白塔寺はかつて、北京市でも有名な「廟会(縁日)」の開催場所で、見世物や漫才、影絵芝居、さらには中国医学による問診なども行われていた。そこで白塔寺では2021年に同様のイベントが実施されるようになった。かつてはなかった屋外での映画上映もあり、一方では若い人に伝統医学の問診を体験してもらう試みもしている。多くの若者が来場し、優れた伝統文化に触れるという、質の高い余暇を楽しむようになった。

白塔を手掛けてくれたネパール人を尊敬し感謝

「大白塔」について、とりわけしっかりと理解したいのは、中国とネパールの文化交流だ。習近平国家主席も2019年のネパール公式訪問の際に、両国の交流に貢献した歴史上の多くの人物に触れ、「元代にはネパールの著名な工芸家アニゴが職人を引き連れて中国に来て、北京妙応寺の白塔などの壮大な建築を手掛けた」、「これらの友好の美談は両国の人々に対して、世代を超えて知り合い、見つめ合い、手を携えて前進するよう激励している」などと論じた。

アニゴは確かに、中国とネパールの文化交流の歴史を象徴する最も輝かしい人物だ。史料によると、アニゴは1244年に生まれた。幼少期からサンスクリット語と工芸製造を学び、彫像や仏塔の建造を得意とした。そして中国に来てから40年余りの間に、多くの仏寺や仏塔などの建設をつかさどった。中国で人材を育成し、多くの傑出した芸術の才能を開花させたことでも、極めて重要だ。

白塔はすべてレンガで作られており、高さは約51メートルだ。外壁には白い灰が塗られている。頂上には傘のような形をした華蓋と呼ばれる飾りがあり、そこには多くの華髷と呼ばれる飾りや風鈴がつるされている。そよ風が吹けば、それらが互いにたたき合ってリズム感のある美しい「音楽」を奏でる。白塔全体は細かく設計されており、構造は緻密だ。「作り方の巧みさは、古今まれにみる」と紹介している古い書物もある。チベット仏教式の仏塔の中でも逸品だ。

白塔の南側には、2002年に開催された「中国ネパール文化交流イベントウイーク」の際に、ネパールのアニゴ協会から寄贈されたアニゴの銅像が設置されている。中国とネパール両国の文化機関は長年にわたり、交流と協力を強化し続けてきた。ネパールの要人や地位ある民間人は北京を訪れれば、必ず白塔寺に足を運ぶ。

私の考えでは、アニゴはもはや単なる歴史上の人物ではなく、中国とネパールの友情のシンボルだ。アニゴが手掛けた白塔は、北京の古いランドマークの一つであるだけでなく、北京の歴史の語り部であり、中国とネパールの友情の証言人だ。(構成 / 如月隼人

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

この記事のコメントを見る

ピックアップ



   

we`re

RecordChina

お問い合わせ

Record China・記事へのご意見・お問い合わせはこちら

お問い合わせ

業務提携

Record Chinaへの業務提携に関するお問い合わせはこちら

業務提携