山西省で出土したサファイア付き金の指輪が東西の壮大な交流を物語る

中国新聞社    2023年11月6日(月) 12時30分

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中国での考古学調査による出土品には、どう見ても「中国っぽくない」ものも珍しくない。そのような文化財は、古い時代におけるユーラシアの交流と文化融合の、壮大な物語の語り部という。

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中国では考古学研究に力が入れられており、毎年のように「重大発見」と見なされる出土品が掘り出される。「いったい、どれだけ埋まっているのだ」と思ってしまうほどだ。ところでさまざまな出土品を見ていると、気づくことがある。素人目にも「いかにも中国」と納得してしまう出土品と「中国っぽくない」と思えてしまう出土品が混在しているのだ。例えば2002年に山西省太原市で調査された北斉時代(550-577年)の徐顕秀墓から出土したサファイアが埋め込まれた金の指輪は「中国っぽくない」出土品の一例だ。原市文物保護研究院文博研究館員などを務める常一民氏はこのほど、この指輪を巡る状況などを紹介する文章を中国メディアの中国新聞社に寄稿した。以下は常氏の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

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偶然により盗掘者の手をすり抜けた貴重な指輪

徐顕秀の墓室はほぼ四角で、面積は約40平方メートルだ。墓室の西寄りには、墓の主人のひつぎや身の回りのものを置くための広さ約10平方メートルのれんが積みの棺床がある。

棺床を囲む床には、墓誌や埴輪、缶、皿、碗などが並べられていた。あまり大きくないスペースに、なんと500点余りの器物が置かれていた。意外なことに、この墓の主にとって貴重品だったはずのサファイアと金の指輪は棺床から出土したのではなく、棺床の東側で壊れた陶器の下に埋まっていた。どういうことなのか。

この墓には四つの盗掘穴があった。墓室内に壊れた副葬品が乱雑に散らばっていたことからしても、何度も盗掘されていたことが容易に推測できる。墓の中には、墓が作られたよりずっと後の時代の元代の陶器碗1点が見つかった。つまり遅くとも元代には盗掘者がここに「ご来店」していた。おそらくは初期の盗掘者が、暗い光の中で作業をしていた時に指輪を落とした。壊れた陶器の隙間に落ちた指輪は、その後の何度かの盗掘者の目をかいくぐって、幸運にも人々の前に姿を現したということだ。


指輪のデザインなギリシャ起源、ではだれが制作したのか

この指輪には、竜のようで竜ではなく、ライオンのようでライオンでもない怪獣あるいは神獣の姿がある。線刻された人物像もある。ライオンの頭に似た大きな獣の首形のヘルメットをかぶっており、顔の幅は狭く、眼窩が落ち込んでいて鼻は高い。上半身にはきつい丸首の半袖シャツを着て、下半身は細いズボンで、靴を履いている。立った姿であり、肩幅は広く腰は細い。体はやや左側に、頭は右に曲がっている。足を後ろに振り出して顔も後ろを振り返っており、踊っているようにも、何かの祭礼をしているようにも見える。

いずれにせよ、指輪にある神獣も人物も、漢族文化の中心地である中原の伝統的様式ではない。その源は、はるかかなたの中央アジアや西アジア、古代ギリシャ、古代ローマまでに求めねばならない。

この指輪の製作技術は、西アジアから中央アジアにかけて、紀元前から紀元7世紀にかけて非常に流行したものだ。実物が次々に出土している。徐顕秀墓の指輪の出所は明らかにアジア大陸中西部だ。

彫られている謎の人物は、獅子の頭をかぶり、獅子の皮をまとい、木のとげのあるこん棒を持っている古代ギリシャ神話の創世神ゼウスの息子であるヘラクレスの特徴に似ているようだ。

現在のウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン、イランの一部に存在した国のバクトリアは一時期、ヘレニズム文化、すなわちギリシャ風文化の中心地だった。ウクライナロシア、カザフスタン、ルーマニアを支配したスキタイ人もギリシャやローマの影響を受けた。ギリシャ神話のゼウス神の像があるバクトリアやスキタイの硬貨もある。

しかも、パキスタンやアフガニスタンには、サファイアの主要な鉱山があった。したがって、徐顕秀墓から出土したサファイアが埋め込まれた金の指輪は中央アジアから西アジアで作られた可能性が極めて高い。さらに言えば、金銀の加工に長けていたソグド人の手によるものかもしれない。

これまで注目されなかったシルクロードの東の拠点とは

だとしても、この指輪がどのような経緯で、徐顕秀の墓にたどりついたのか。それは、シルクロードと北朝時代の晋陽の地位に関係している。シルクロードは言うまでもなく、東西文明をつなぐ重要な通路であり、東西文明の発展と進歩を大きく促進する役割りを果たした。

しかしシルクロードの東側の都市について、これまで西安と洛陽のことが多く語られてきたが、晋陽は注目されなかった。シルクロードの地図や関連書籍を調べても、晋陽についてはほとんど言及されていない。


東魏から北斉にかけての時代(534-577年)、晋陽ではシルクロードの重要な来客、ソグド人商人が大量に暮らしていた。文献と碑文の墓誌によって個人名が特定できるソグド人商人はかなり多い。

中でも重要なのは、中国語名で虞弘と記録される、中央アジアから来たソグド人だ。虞弘は「郷団」を組織した。その郷団は隋の役所に仕え、下部組織を設置し、農民を徴用して組織した兵団を管理し、農民に税を課したといった記録がある。「郷団」とは農村部の農業生産と人民の管理を担当し、軍事的機能を果たすこともあった組織だ。つまり虞弘が郷団のリーダーになったことは、郷団メンバーの中に西域の出身者やその子孫が少なくないことと切り離せないはずだ。

東魏から北斉にかけての晋陽は政権の中心都市であり、皇室など上流階級や裕福な商人が集まり華美な生活を送る貴族層と華美を追求する社会風潮が形成された。シルクロード文化は上流階級の間で流行した。後の唐代に描かれた文献にも、音楽と言えば西域由来の胡笛や箜篌(くご、竪琴の一種)が用いられ、寝具も西域風、食べ物も西域風のあぶり肉で、西域の神を拝んだなど、当時の人々が西方の文化にどっぷりとはまった様子が記されている。

中国文化に影響を与えたペルシャのゾロアスター教

徐顕秀も、西方文化に魅了された一人だったと考えられる。墓室の石門の彫刻と彩色の神獣は、中原文化で伝統的に用いられたものからの変更があった。例えば、ササン朝ペルシャで「神の栄光」を表すとされた神鳥の彫刻がある。これまでの研究によれば、このペルシャ由来の神鳥は徐顕秀が生きた時代あるいはその前後に中国に伝わり、その後は中国にそれ以前からあった鳳凰や朱雀などと融合して墓の「守護神」になった。

ササン朝ペルシャの国教はゾロアスター教だった。研究者の郎保利氏と渠伝福氏が著した「北斉徐顕秀墓のゾロアスター教文化要素を試論する」という論文によると、徐顕秀墓で確認できるゾロアスター教文化の要素は10項目にも上る。

墓室の西壁壁画では、多くの連珠紋を確認することができる。この連珠紋はゾロアスター教美術で用いられた典型的な装飾紋だ。それがシルクロードを通して中国に伝わった。そして徐顕秀の墓では中国の伝統的な焼造技術と結びついて用いられた。このことは東西文化の交流のもう一つの例証だ。(構成 / 如月隼人

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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