中国起点に全世界に張り巡らされた「ティーロード」とは―世界遺産登録の推進者が説明

中国新聞社    2023年10月30日(月) 10時30分

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「ティーロード」を通って中国から世界に伝わった茶は、世界各地で現地の文化と融合した。写真は「お茶大好き国」の一つであるロシアなどで使われるサモワールという名の給茶器。

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茶を愛する西洋人としては、英国人が有名だ。しかしロシア人も負けず劣らず茶を好む。英国人は海外で生産された茶葉を本国まで船で運んだが、ロシア人は陸上輸送した。こうして中国を起点とする「ティーロード」が形成されていった。ティーロードはさらに米大陸にも伸びた。中華文化促進会と湖北大学が共同で設立した「万里のティーロード研究院」の院長などを務める黄伯権氏はこのほど中国新聞社の取材に応じて、ティーロードが形成された過程や世界文化遺産登録を目指す取り組みを紹介した。以下は黄院長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

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中国南部からサンクトペテルブルクまで1.4万キロの「ティーロード」

陸上のティーロードが形成された発端は、清代の康熙年間(1661-1722年)から、山西商人が長江中流地域で生産された茶葉をモンゴル高原向けに大量販売したことだった。1728年に中ロ両国がキャフタ条約を締結したことで、ユーラシア内陸を経由するティーロードが公認されたことになる。

清朝政府は当初、外国人商人が中国内地で茶葉を調達することを認めなかった。そこで、長江中流からモンゴル地域までの茶葉取り扱いを支配していた山西商人が、中国国内では中ロの茶貿易を独占した。山西商人は福建省武夷山まで南下して茶葉を仕入れ、内陸水系を利用して湖北省の樊城まで輸送し、さらに北上して河南、山西、張家口を経て、現在のウランバートル、さらにはロシアとの国境のキャフタまで運んだ。そして茶葉はロシア領内を横断した。中国の茶葉生産地からロシア首都のサンクトペテルブルクまでは、1万4000キロもの長大な道のりだ。

清朝末期には「中ロ天津条約」や「中ロ北京条約」などの不平等条約に伴い、ロシア商人は中国大陸部で中ロ茶葉貿易に参与する特権を獲得した。ロシア商人は1860年代から中国南部の茶の生産地に工場を設立して、茶を加工して輸出した。長江沿岸の漢口が開港すると、発達した内陸航路を利用して長江中流の各茶で生産された茶葉を集めた。漢口は中国最大の茶葉輸出集散地になった。

しかし20世紀初頭になると、シベリア鉄道の開通やロシアによる茶商人への重税、第一次世界大戦の勃発などにより、中国とロシアを結ぶ「ティーロード」は衰退した。

ロシアや米国、行く先々で現地化した茶文化

中国で飲み物としての茶の歴史は極めて古い。具体的に始まった時期が特定できないほどだが、漢代には長江流域で喫茶の風習が広まっていった。唐代以降には中国北部にも広まった。宋代になって、飲茶の習慣は絶えず北方の游牧民族に受け入れられ、次第に彼らの「命の飲み物」になっていった。

西洋人は最初、茶を健康飲料として受け入れた。最初に伝わったのは17世紀のオランダだ。茶は上流階級のおしゃれな飲み物として短期間で定着した。その後、茶は英国に伝わり、ステュアート王朝期(1371-1714年)には喫茶が宮廷生活の一部になった。喫茶は社交手段にもなり、アフタヌーンティーの習慣が生まれた。ロシアでは18世紀末には喫茶の風習が社会の各階層に及んでいた。茶葉はもはや生活必需品だった。ロシア人は茶に砂糖、レモン、牛乳、牛乳を熱した際に表面にできる薄皮、ハーブなどさまざまな食材を入れて独特なロシアンティーが形成された。

喫茶は17世紀半ばにはヨーロッパからの移民に伴って米大陸へと広まった。18世紀には北米で牛乳やチーズを茶葉に浸透させる風習が生まれた。また、米国では独特のアイスティー文化が生まれた。中国の喫茶の風習は世界各地に伝わり、現地の生活習慣や、さらには文学や芸術、礼儀制度に溶け込んだ。喫茶の風習には、西洋人の生活の品位を大幅に向上させる効果もあった。


茶は人々を豊かにし、心と心を結び付けた

「万里のティーロード」の恩恵を最初に受けたのは生産地だった。まず、茶農家の収入が増えた。また、茶葉の商品化には摘み取り、加工、輸送など多くの労働力を必要とした。つまり、多くの人が仕事を得た。さらに、茶を扱うことで大きな企業体や商業の人材が発生した。

「万里のティーロード」の形成は沿線の発展と繁栄にもつながった。現在の江西省や湖南省では、200以上の都市や街が茶の輸送販売で繁栄した。

さらに「万里のティーロード」を利用して、中国の他の物産もヨーロッパに運ばれ、ヨーロッパの物産、特に毛皮、薬材、工業品が絶えず中国に運ばれた。つまり貿易全体が活性化した。

「万里のティーロード」が形成されたのは、西欧で第一次産業革命が完成した時期だった。「万里のティーロード」は中国が世界の貿易システムに加わることを促進した。つまり中国の近代化を推進する作用もあった。

「万里のティーロード」は、輸送などの担い手ではなくなったが、文化遺産として今も機能している。沿道に残っている古茶園、加工工場、古道、橋、ふ頭、商店群、記念的建築、および多くの無形文化遺産は各地の文化産業と観光業を発展させる潜在的資源資源であり、中国・モンゴル・ロシア経済回廊の構築や「一帯一路」建設の推進にとって重要な意義を持つ。

茶には経済効果だけでなく、人と人の心を結びつける作用もある。茶には健康、環境保護、天然などの特性がある。また、茶は飲む場所を選ばない。仕事場でも街頭でも、家でも旅先でも茶を飲み、さらには語り合うことができる。茶は昔から今まで、庶民の生活でも上流階級の社交でも重要な交流媒体と見なされてきた。茶で客をもてなすことは民間の付き合いでの普遍的な礼儀作法になった。

最近になり、茶にまつわる美談が一つ追加された。中国にとって2020年前半は、新型コロナウイルス感染症の発生で最も苦しい時期だった。よく知られているように、最も深刻だったのは湖北省武漢市だった。モンゴルはこの時期に、中国に羊を3万頭を寄贈した。中国は同年半ばには、最も苦しい状態を脱出したが、こんどはモンゴルで患者が増えた。すると湖北省はモンゴルに対して、まとまった量の感染症対策用物資と、茶を寄贈した。

モンゴル民族の人々が常用する茶葉は、輸送に便利なよう茶葉を直方体に固めた「レンガ茶」だ。湖北省はモンゴル人が利用するレンガ茶の主要な産地だ。湖北省がモンゴルに送ったレンガ茶は1万5000個に上った。

中国など3カ国が「万里のティーロード」世界遺産登録を推進

「万里のティーロード」は沿線の経済や社会の発展と歴史の変遷を目撃し、中国と西洋の思想や文化交流と文明の相互参照を目撃した。今日、私たちはこの突出した普遍的価値を持つ文化路線の遺産を世界に改めて示す必要がある。

2012年6月には「万里のティーロード文化遺産保護懇談会」が設立され、「万里のティーロード」のユネスコ世界文化遺産登録への運動が始まった。そして「万里のティーロード研究院」が設立され、関連する国際学術シンポジウムや世界遺産登録巡回展、自動車ラリーなどのイベントが開催された。これらはすべて世界遺産登録の実現を支援するものだ。

「万里のティーロード」の世界文化遺産への登録への運動は、中国とモンゴル、ロシアが共同で実施している。運動を通して3カ国の友情と相互信頼が増進された。世界文化遺産への登録に成功すれば中国の茶文化の影響力がさらに高まり、茶文化を通じて信頼でき、愛すべき、尊敬すべき中国のイメージを世界に広めることができるはずだ。

中国国内では、「万里のティーロード」の沿線9省の茶文化、茶の科学技術、茶産業の統一的かつ協調的な発展が促進され、中国の茶産業の世界進出をさらに推し進めることができる。

「万里のティーロード」沿線には、武夷山、廬山、長城など、多くの観光地や歴史的遺構がある。世界遺産に登録されれば知名度がさらに向上し、沿線地域の経済回復と文化の旅の融合をさらに推し進めることになるはずだ。(構成 / 如月隼人

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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