孔子の思想の今の世界にとっての最大の貢献とは何か―ギリシャ人専門家が説明

中国新聞社    2023年10月9日(月) 16時40分

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孔子は紀元前の中国を代表する思想家だ。そして古代ギリシャでも哲人が輩出した。儒教とギリシャ哲学、ひいては西洋思想はどこが違うのだろうか。写真は山東省内の師範大学にある孔子像。

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孔子は紀元前552年または同551年に生まれ、同479年に没した。孔子の教えを土台とする思想、すなわち儒教は中国の主導的思想になった。中華人民共和国成立後の一時期には排斥されたが、現在では改めて、古代中国でもとりわけ重要な思想と評価され、孔子の教えを現代にどのように生かすかなどが考察されている。マカオ大学哲学科の高級講師などを務めるギリシャ人のディミトラ・アマランティドウ氏はこのほど中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、孔子の特徴や西洋人研究者が孔子に関心を持つ理由を説明した。以下はアマランティドウ氏の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

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手法は似ていても真理観は異なる孔子と西洋の哲学者

孔子は偉大な人物であり、非常に興味深い研究対象でもある。そして、孔子は誤りを犯す人でもあり、至らぬ場合もあった。仮に孔子が完璧で理想的な人物だったら、「論語」は一種の「教条」になっていただろう。

私が興味を持ったのは孔子の複雑な個性で、そこにはユーモア、英知、ケチなど、一見矛盾しているような面がたくさん含まれていた。そして、注釈や口述によって孔子についての記述は異なる。中国の有名な歴史家の顧頡剛(1893―1980年)が言ったように、「各時代には各時代の孔子がいる。一つの時代の中にもさまざまな孔子がいる」ということだ。人が違えば、その人にとっての孔子は「別の孔子」だ。

私にとっての孔子は、まず「皮肉を知る孔子」だ。西洋文化では皮肉の要素が大きい。ソクラテスから現代に至るまで、西洋の哲学者の多くは皮肉についてさまざまな見解を示した。中国の古典に「皮肉」という言葉はないが、皮肉は存在した。皮肉の基本的な定義は、言っていることと、実際に伝えたいことが逆であることだ。「論語」にはこのような皮肉の記述がある。例えば季文子は物事を3度考えてから実行すると言った。それを聞いた孔子は、2度考えるだけで十分と言った。しかし孔子の真意は、回数には関係ないということだった。つまり、孔子の言葉を教条とする季文子の態度を批判したのだ。さらに言えば、表面上な行為をなぞっても「君子」になるわけではないと諭したのだ。

孔子流の皮肉と、西洋の哲学者が言及した皮肉は、うわべは似ているように見えるが、違いがある。特に真理に対する認識の違いだ。ソクラテスから見れば、真理は一つしかない。ソクラテスにとっての皮肉は、真理を発見する方法ではないにしても、少なくとも相手の意見の矛盾や欠陥を明らかにすることによって、真理に近づく方法だった。ソクラテスにとって神聖で永遠に不変な真理が存在することが、皮肉を述べる上での非常に重要な前提だった。

しかし、孔子は真理を求めたり、「敬虔とは何か」という普遍的な問いに対する答えを求めたのではない。「論語」の中で扱われている問題はすべて極めて具体的であり、個別の状況にある具体的な個人によって発せられたものだ。孔子が同じ質問に対しても相手によって異なる答えを出したのはこのためだ。

ソクラテスは一般性と普遍性を見出すために特殊性を排除したかった。孔子は、ある特殊な状況のみ適合できる解答や理解を導き出そうとした。言い方を変えれば、自らの思想に可能な限り多くの特殊性を盛り込もうとした。

理性と温かみを併せ持つ孔子、その理由とは

西洋思想は理性の原則を中心に発展してきた。しかし孔子には理性のほかに「温かみ」がある。林語堂(1895-1976年)は孔子の皮肉を柔軟性や「情理」と結びつけた。林語堂は著作の「ある菜食主義者の自白」の中で、ある中国人が精進料理を食べながらたまには肉も少し食べると描写した。西洋では「ベジタリアン」は絶対的であり、人はベジタリアンとして肉を全く食べないか、肉を好きに食べるかのどちらかだ。だが、中国人の「情理」の考え方に沿って理解すると、物事は必ずしも「白か黒かのどちらか」ではなく、「両方」ありえる。

その理解が論理矛盾を生み出している。人はどうして肉類を食べながら菜食主義者でいられようか。しかし、中国人は一般的に論理矛盾に寛容だ。生活のなかにそのような状況はしばしば出現すると考える。言い換えれば、相反する側面、状況、感じ方は両立可能であり、互いに排斥し合うものではない。

孔子は「無可無不可」と言った。この言葉の原義は「よい」あるいは「よくない」と、抽象的に決めつけることはできないということだ。それぞれの状況においてのみ、「可」と「不可」を判断できるということだ。孔子は顔回を称賛したが、他の者を同じように励ますことはなかった。顔回は顔回、子路は子路ということだ。

山東省の師範大学にある孔子像

そして孔子が強調したのは、学ぶこと自体を愛することであって、学んだ結果を重視することではなかった。孔子が弟子を叱責するのは、弟子が完璧でないからではなく、もっと向上しようと努力しなかった場合だ。これは孔子の「情理」のもう一つのあらわれだ。こういった考え方は、孔子思想、ひいては中国思想の今の世界への最大の貢献かもしれない。

西洋が孔子を真に理解するには、まだ時間がかかる

孔子は緊張や矛盾に寛容だった。例えば、世界のすべての国が同じ価値観を持っているわけではない。価値観の違いによって社会は異なってくる。中国人は違いを恐れない。それとは全く逆だ。中国人は、彼我に異なる価値観、異なる視点、異なる目標があっても、それを土台にした上で調整が可能と考える。情理、寛容、絶えず具体的な状況と需要に適応し、固定的な真理と抽象的な普遍的原則に依存せず、辛抱強く自らを認識し他者を学ぶ。さらに、一人で学ぶのではなく、他人と共に学ぶことを重視する。これらはすべて中国哲学のいくつかの重要な経験に基づく。これらの経験は、現在の世界で喫緊のグローバル課題について議論する上で参考になると考える。

西洋でも孔子の思想の研究者は多い。その理由の一つは、国ごとに異なる宗教信仰があり、それがいくつかの紛争を引き起こす原因にもなっていることだと考える。儒教の思想は個人が信奉する宗教と衝突しない。つまり、どの宗教を信じていても、儒教の教えを信奉することが可能だ。

また、西洋の研究者が孔子に興味を持つのは、中国そのものに興味があるからだと思う。要するに中国の発展の「秘密」は何なのかを知りたいのだ。儒教思想がその「秘密」の一つだと思うかもしれない。しかし、西洋が儒教思想を本当に深く理解するには、まだ何年もかかると思う。多くの人は中国で何が起こってきたか好奇心があるので、中国文化や中国の伝統を深く理解したいと願う。そのためには、もっと多くの翻訳が必要だ。古典そのものの翻訳だけでなく、古典の注釈の翻訳も必要だ。(構成/如月隼人

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