世界にある「花文化」、中国では特に高度に発達―西洋との比較も交え専門家が紹介

中国新聞社    2023年6月12日(月) 23時30分

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色とりどりの花を愛する心は人類全体に共通すると言ってよいだろう。しかし、実際の「花を愛でる流儀」は時代や民族によって異なる。では、中国人はどのように、さまざまな花を楽しんできたのだろう。

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色とりどりの花を愛する心は人類全体に共通すると言ってよいだろう。しかし、実際の「花を愛でる流儀」は時代や民族によって異なる。では、中国人はどのように、さまざまな花を楽しんできたのだろう。中国工芸美術学会香り文化委員会の孟暉副主任はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、長い歴史を通しての中国人と花の関わりや他の文化圏との違いを説明した。以下は孟副主任の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

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四季がはっきりした農業国の中国では草木や花に対する感情が濃厚に

「美しい花を愛でる」行為も、やはり文化の一種だ。中国人が行ってきた花見も、中華文明の全体的な進歩に伴って絶えず豊かになり、様相が変わってきた。

中国の大部分の地域では四季がはっきりしている。秋には落葉し、冬には雪が舞う。3、4カ月間は、植物の息吹をあまり感じない寂しい日々が続く。だからこそ、再び巡ってくる春は格段に素晴らしい。春になると山水は美しい姿を見せ、草木が豊かに茂り、さまざまな種類の花が順を追って咲いていく。遅くとも戦国時代(紀元前5世紀-同221年)には、春になれば山や水辺に皆で繰り出して花を愛でる風習が発生していた。

また、中国では古くから農業が発達した。そのことも関係して、人々は植物に対して濃厚かつこまやかな感情を持つようになった。はっきりとした四季や季節折々の農作業によって、古人は時間の推移に特に敏感になった。開花は優美な光景で時間の流れを体現するので、古人は花を通じて天地万物の繰り返しの規則を感じ、もろい一方でたくましくもある生命の特質を感じた。古人は花を世界の縮図として鑑賞した。中国人が満開の花を見た時に湧き上がる感情は自然や宇宙の万物に対する優しい愛情だ。

古人は野の花を鑑賞していただけではない。宋代(1127-1279年)以降には花の栽培技術が高度に発達した。そのことで、ほぼ1年を通じて花を愛でることが可能になった。中でも代表的な花は、夏はハス、秋はモクセイ、冬は梅、ロウバイ、水仙だ。「雪を踏んで梅を探す」は士大夫文人の最も奥ゆかしい行いになった。

もちろん庶民も花を愛でた。唐代(618-907年)初期には、人々が老若男女を問わず集団で遠い野に出て、自然の花を鑑賞した。この花見は盛大な交流の行事でもあった。特に戦国時代までは、若い男女が花を摘みながら、恋の相手を探し求めた。互いに気に入れば、自らが摘んだ香気あふれる花や草を贈り合った。春の開花は、「恋の開花」に直結していた。

「花は皆のもので独り占めはできない」という公共心が発達

唐の最盛期に花見の文化はさらに成熟した。さまざまな公的機関や、民間人でも財力がある場合には、都市の内外に花の木を栽培した。そこには楼閣も築いた。この半人工的な空間で、多くの人が花見を楽しんだ。有名なのは唐時代の曲江、宋代から現在までの杭州西湖、明清時代の揚州痩西湖、嘉興南湖などだ。明代には西湖のほとりにある富豪一家が提灯をつるして、訪れた人々が夜になっても桃の花を楽しめるようにした。

花見は「祭り」でもあった。人々は花の下で食事をしたり、歌ったり音楽を奏したり、馬を走らせたり、たこ揚げをしたりした。そして、商売人が商品を並べ、芸人が歌や語り物を披露するようになった。こうして、花見客は一層楽しめるようになった。

唐代後期からは、私設庭園が作られるようになった。ただ、庭園の主が花を独り占めしたわけではない。植えている植物の開花期になれば庭園は開放され、大衆は自由に出入りして趣を楽しんだ。

宋代になると、都市部の私設庭園はますます増えた。造園にあたっては、庭としてのすばらしさが重視されるようになり、そのための技術も発達した。つまり素晴らしい庭園で花見をすることは芸術に触れることだった。このことで一般庶民も、知らず知らずにして自らの素養を高めた。

明代(1368-1644年)から清代(1644-1912年)にかけては、花見と芸術鑑賞が融合するの傾向がさらに強まった。私設庭園の主は、園内の建物に書画や陶磁器の逸品を置くようになった。庭園を開放する時期には、このような美術品も公開した。訪れた人々は由緒ある美術品を鑑賞し、感覚を磨き知識を増やした。

私設庭園の造成や維持には莫大な費用がかかる。しかし花の季節に一般の人に開放したことには「皆さんのため」という目的意識があった。だから入場料を徴収することはなかった。しかし入場する人の側には、庭師に「心づけ」を支払う習慣が発生した。庭師は1年を通じて庭の手入れや草木の世話をしている。「おかげさまで、今年の春も美しい花を満喫することができました」と、感謝の気持ちを示したのだ。人情味にあふれる習慣ではなかろうか。

日本やペルシャに出現した花文化、中国ではさらに高度に発達

よく知られているように、日本には桜を見る伝統がある。花の下で会食したり、歌ったり踊ったりする習慣は、中国の歴史上の花見に非常に近い。日本の花見には中国文化の影響があると思う。

私の知っているところでは、ペルシャ文化圏には春に郊外で花見をする伝統があった。人々は花の名所に訪れて宴席を設けて楽しみ、詩作を競ったりする。楽器を奏でることもある。やはり、花を愛でると同時に、芸術を楽しんだわけだ。

西洋の花見文化は、中国や日本、ペルシャなどの花見文化とくらべれば、ずいぶん見劣りがすると思う。花見と芸術の結びつきは希薄だし、咲いてはいつか散る花に、万物の移ろいを見出すという世界観に直結する花の鑑賞精神もさほど形成されていないと感じる。

中国では「花文化」がさらに高度に発達した。文人士大夫にとって、もっとも重要な社交行事の一つは「賞花会」だった。見ごろの時期に合わせて「ボタン会」、「シャクヤク会」などが催された。それ以外にもカイドウ、蓮華、桂花、菊を愛でる会が行われた。単に花を愛でるだけでなく、どの建物をどう使うなどが、綿密な計算によって決められた。植えられている花を鑑賞するだけでなく、建物の柱、ドア、窓、壁などに数多くの竹筒を取り付けて、花を生ける方法もあった。屋形船を菊の花でいっぱいにして、その船に乗って菊の香り中で風景を満喫する「菊舟」という遊びもあった。

清代には花の都とされた浙江省の蘭渓で「花浴堂」が出現した。個室式の入浴施設で、各浴室はそれぞれ別の珍しい花で飾られた。客は自分の好みで花を選び、その花でいっぱいの浴室で着物を脱いで入浴し、のんびりと茶をすすったりした。

また、「花饌」と呼ばれる花を食材にした料理体系も出現した。例えば、ハクモクレンやハスの花を炒め物にした。菊の花を使った鍋料理もあった。また、酒に花を漬けて「花酒」を造った。各種の花を蒸して「花露」という飲み物も作った。この「花露」は健康によいとされた。

中国人の美学は、西洋の哲学のように苦しい思索を重ねて「美とは何か」を追求するものではなかった。他人との共感があれば、それを目指して進んだ。そして目、鼻、口などの感覚を使って美を体感した。中国の伝統的な花見文化はこのように、花や園林、文化芸術を組み合わせて、すべての人に「人の価値」や「命の価値」を感じさせるものだった。美の境地を目指す人の努力と自然の恵みは互いに呼応して、互いに裏切ることはない。自然は花を与えてくれる。人は自らの心や手を使って、花の行事を執り行ってきた。(構成 / 如月隼人


※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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