中国人初のノーベル賞作家の莫言が「語らぬ愛」の方針を変更した経緯とは

中国新聞社    2023年5月4日(木) 23時30分

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中国人として初のノーベル賞作家である莫言は、早い時期から恵まれない人への寄付をしてきた。しかし2022年にはかたくなにこだわってきた「語らぬ愛」の方針を変更した。

莫言は2012年にノーベル文学賞を受賞した。中国語で作品を発表している作家としては、中国江蘇省出身の高行健が2000年に同賞を受賞しているが、高行健は受賞時にはフランス国籍になっていたので、中国人としての受賞は莫言が初めてだった。莫言にはもう一つの「顔」がある。かなり早い時期から恵まれない人々のための寄付活動を続けてきたのだ。かつては自分の名を出さないようにしていたが、2022年には方針を変えた。いったい、どのような経緯だったのか。以下は、中国メディアの中国新聞社が莫言の話を交えてまとめた記事に、一部情報を追加するなどで再構成したものだ。

「人が知る善は、真の善ではない」という信念

莫言は1955年に生まれた。小学校5年生の時に文化大革命の影響で学校が閉鎖され、農村部で労働に従事した。1976年には人民解放軍に入隊して分隊長、機密保持員、図書管理員、教員などを務めた。一方で1981年からは小説を発表するようになった。1986年には、解放軍芸術学院文学科を卒業した。

莫言は2001年に第2回馮牧文学賞を受賞し、賞金2万元も獲得した。その後、軍を除隊して検察日報社に就職したが、その時に馮牧文学賞の賞金として獲得した2万元すべてを検察日報社に寄付した。その金は自分の懐に入れるべきでなく、放出すべきと考えたからという。

中国では、貧困地域の児童を支援する希望工程と呼ばれる事業が全国各地で推進されていた。検察日報社を所管する最高人民検察院は、雲南省での同事業の一環である希望小学校の設立と運営に携わっていた。莫言が寄付した2万元は、この事業に使われた。莫言は検察日報社に勤務していた時期には国務院(中国中央政府)から5000元の臨時手当を支給されたが、これも雲南省での小学校関連事業のために寄付した。

莫言は2014年に、中国西部地区の先天性心疾患を患う児童を救うために、中国赤十字に原稿料として得た100万元を寄付した。そのきっかけは、莫言自身が心臓の不調を感じて北京大学人民病院心血管疾患研究所所長の胡大一主任医師の診察を受けたことだった。莫言によれば、胡医師が西部地区に住む先天的心疾患を抱える児童を支援する中国赤十字のプロジェクトを立ち上げたことを知り、心を強く動かされたという。

莫言は2015年にも、このプロジェクトに125万元を寄付した。莫言の寄付により、チベットに住む62人の児童が手術を受けて救われることになった。

莫言は2012年にノーベル文学賞を受賞したことで、中国全国で顔も名も知られる存在になっていた。そして莫言は、寄付にあたって中国赤十字に2点を要求した。まず、自分の寄付について公表や報道をしないこと。次に、莫言は関連イベントに出席せず、手術を受けた子を見舞うために病院に行くこともしないことだ。このノーベル賞作家は、恵まれな人々に対する「語らぬ愛」を貫ぬこうと決意していた。

莫言は、「私は一つの理念を固く信じていました。人が知る善は、真の善ではない、ということでした」と語った。

「自分の知名度を利用しても寄付を増やした方がよい」と考えを変更

しかし莫言は、2022年の春節(旧正月。同年2月1日)の直前に、自分の信念を再考することになった。親友である北京北京舒同文化芸術研究会会長の王振と、高齢者に贈るための「福」や「寿」などのめでたい文字を書いていた時のことだ。莫言は幼いころから、両親の影響もあり書道に親しんできた。

高齢者に贈る文字を書くために筆を動かしている時、莫言の脳裏にふと「字を慈善団体に寄付すれば、それを競売することで義援金を集めて、西部地区の児童をさらに支援できるのでは」との考えが浮かんだ。

王振もこの考えに賛同した。二人はすぐに、中華慈善総会に連絡した。この時に莫言が書きあげた書100点を寄付したことが「莫言同心」プロジェクトの始まりだった。製薬会社の雲南白薬の協力もあり、この時には500万元を得ることができた。雲南白薬は協定により、前後6年にわたり莫言らから書を受け取り、累計2000万円の収益を確保することを保障した。

第1回の500万元はすでに、心臓疾患を持つ児童200人近くを助けるために使われた。莫言本人は今も「善とは人に知られずに行うもの」との考えが強いが、自分のアピール力と影響力でより多くのことができるならば、ためらうべきではないとも考えるようになったという。莫言は、人前に姿を現して自らの書を競売にかけることも行うようになった。

莫言はまた、寄付金の恩恵を受けた子どもにも会うようになった。北京市内の病院では、手術を受けるために甘粛省やチベットから来た子と面会した。ある病室で1歳ちょっとの小さな子と面会したことは、特に記憶に残っているという。莫言によると、その子は母に付き添われて、ベッドに座っていた。莫言は、「その子の小さな足を握りました。すると、人が持つ本能の一種である愛が、心の中にしっかりと湧き上がってきました」と語った。

莫言はさらに、「このような感覚を得られたのは、大きな幸せだった。私がこの子を助けたのだろうか。むしろ子どもが私を助け、慰めてくれたのだ。私は、世代から世代へと受けつがれる人類の継続や命のありがたみを連想させられた。文学とは命を書くものであり、人を書き、感情を書くものだ」と語った。

政府の無策に対する「怒りの小説」を35日間で書き上げたことも

莫言は慈善活動に熱心に取り組んできたが、その理由は「内心の必要」と強調している。莫言は自らの人生について「私はあくまでも作家です。私がやっているすべてのことは、執筆という中心から離れられません」とも語った。

莫言の作風を「幻想主義的の影響を受けたリアリズム」と評する人もいるが、莫言は自らの作品は正統的なリアリズムに属すると考えている。そんな作風を示した好例は、1988年に発表された「天堂蒜薹之歌」(邦題:天堂狂想歌)だ。同作品は1987年5月に山東省で発生した農民による暴動を題材とした。

暴動のきっかけは地元政府が、責任を負っていたにもかかわらず、農民が収獲したニンニクの茎をきちんと売りさばかなかったことだった。莫言はこの作品で、農民の立場を全く無視する官僚主義への怒りをむきだしにした。わずか35日間で一気に書き上げた作品だ。

莫言は2020年に始まった新型コロナウイルス感染症にも強い関心を持っている。莫言は、「どの作家も芸術家も、このような世界的な災難、疫病について考えていると思う。不条理小説にしてもいいし、スーパーリアリズム小説にしてもいいし、ドキュメンタリー形式の小説にしてもいい。どの作家の心の中でも感染症に関する小説の草稿が温められている。あとは、どのように書くか、いつ書くか、どのような形で書くかだ」と述べた。

莫言は、30年以上前から戦争関連の小説を構想してきた。莫言は笑いながら「いろいろな機会に公言して風呂敷を広げました。でも、ずっと完成していません。ずっと準備段階が続いていて、集めた関連資料はうず高い山になりましたけどね」と言った。

莫言は、「目下の最大の願いの一つは、この小説を完成させることです」と語った。さらに、「いつ完成するかは、本当にうまく言えませんね」と言って、少しいたずらっぽい表情を浮かべながら、「いつかはやり遂げたいんですけどね」と付け加えた。(構成 / 如月隼人

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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