シルクロードは中国の「食の体系」にどのような変化をもたらしたのか―専門家が紹介

中国新聞社    2023年4月21日(金) 0時0分

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中国は古くからシルクロードを通って伝えられた西方の食文化を受け入れてきた。写真は中国西部の新疆に住むウイグル族の料理。ウイグル族を経由して中国のその他の地域に伝わった食文化も多い。

中国では独特で、しかも高度な食文化が発達した。だが中国の食文化の「進化」は国内だけで完結していたのではない。中国は周囲に向けて文化を発信し、同時に周囲から流入する文化を吸収しつづけてきた。中国への文化流入で、とりわけ重要な役割りを果たしたのが、ユーラシア大陸を東西に横切るシルクロードだ。食文化の流入についても、シルクロードはとりわけ重要だった。中国敦煌トルファン学会理事で、甘粛省敦煌学会副会長も務める高啓安氏は中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、シルクロードを通じて中国にもたらされた食文化が、中国の食の体系にどのような変化をもたらしたかを説明した。以下は高副会長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

西から伝わった食材や調理法で中国の食文化が大変化

確定した交易路としてのシルクロードが成立したのは紀元前2世紀ごろだが、中国はそれ以前から西方の食文化の影響を受けていた。例えば小麦の原産地はアジア中央部のコーカサス地方から西部のメソポタミア地方にかけてと考えられている。つまり中国には、西から伝わってきたわけだ。甘粛省張掖市山丹県内にある四バー灘遺跡(「バー」は土へんに「覇」)では、今から4000年前に小麦が食べられていたことが明らかになっている。

シルクロードが本格的に機能し始めたのは、前漢の時代に張騫(?-紀元前114年)が西域に派遣されたことが大きなきっかけだった。それ以降、中国には西方から大量の食材がもたらされることになった。ある研究者によれば、エンドウ、ホウレンソウ、ブドウ、コショウなど、100種類以上の食材が中国にもたらされた。このことで、中国人の「食の世界」は大いに広がった。

胡餅と呼ばれる一種の焼きパンもこの時代にもたらされた。小麦粉を食べるためには、水と共に加熱する必要がある。パン類の場合、中国ではまず小麦粉に水を加えて練って生地にして窯などで熱した。次に少量の油を使って炒める方法、さらには油で揚げる加熱法などが登場した。

シルクロードを経由して小麦が中国にもたらされたことは、中国の食文化に「革命的」と言える変化をもたらした。中国語には小麦粉を使った食べ物を表す言葉として「餅」や「麺」などがある。南北朝(439-589年)末期に書かれた「斉民要術」は、これらの文字の記載がある。同書は中国で最も古い小麦粉食の記録とされている。

ただし中国では小麦が伝わった当初から、小麦粉にして食べていたのではなかった。最初はつぶして押し麦にしてから、煮て食べていた。前漢(紀元前202年-紀元8年)の時代に回転うすが伝わって来たことで、製粉が可能になった。中国北部では小麦をはじめとして、穀物を粉状にして食べる文化が定着した。この中国の重要な食文化を成立させるための技術は、シルクロードを通して伝えられたわけだ。

漢代には、さまざまな飲食器具も伝わって来た。面白いものに、古代ペルシャなどで使われていたリュトンと呼ばれる盃がある。鹿などの角のような形をした盃で、底部に小さな穴があけられている。酒を注げば底部の穴から酒がしたたり落ちる。当初はしたたり落ちた酒には神聖さが生じると考えられて宗教儀式に用いられたようだが、次第に飲酒の席に一興をもたらす酒器になっていった。つまり、底部の小孔を指で押さえて酒を飲み、飲み干すまでは盃を卓の上におけないという趣向だ。西方から伝わった酒器は、酒の場をさらに愉快にするためにも奏功した。

ギョーザも外来の食べ物だった、食べる作法では中国の独自の変化も

私は敦煌遺跡の研究に長く携わってきた。敦煌で発見された文献には60種類以上の食べ物を整理した記載がある。その中には「胡食」、すなわちシルクロードを通じてもたらされた食べ物もある。例えば餃子(ギョーザ)も西方からもたらされた食べ物だ。ただし早い時期の餃子は現在の餃子よりも大きく、火であぶって加熱していた。中国に入ってから小ぶりになり、水でゆでて食するようになったわけだ。

西方から伝わった食べ物が中国で人気を集めるためには、中国人の口に合い、便利で栄養もよいなど以外に、伝わった先の文化や新興、食習慣に適するように変化する必要がある。西域の食べ物は中華の食体系に融合し、時代を超えて受け継がれた。どれが西域由来の食べ物で、どれが中国で生まれ育った食べ物かを見分けるのは、現在では困難だ。

食べる作法についての中国独自の変化もあった。例えば現在の中国料理は、複数人がテーブルを囲み、テーブルの中央に料理を盛った大皿を置く。しかし古い時代には現在の西洋料理と同様に、一人分の料理を皿に盛って、それぞれの会食者の前に置いた。大皿の料理をそれぞれが取り分けるようになったのは、宋代(960-1279年)以降のことだ。

この変化には、宋代には都市部が繁栄して料理の種類が増えたという背景がある。何種類も出される料理を一人分ずつに取り分けて並べるには、テーブルや台が狭くなってしまったのだ。炒め料理が盛んになったことも関係していると思われる。炒め料理では色や香り、見栄えも大切だ。料理が何種類も出て来るので、一つの料理の各人が食べる量は少ない。炒め料理が最初から小さな小皿に分けて出されたのでは、迫力に乏しい。だから、どの会食者からも取りやすいようにテーブルを円卓にして、その中央部分に大皿に盛られた料理を置くようになった。

もっとも、大皿の料理を取り分ける方式には問題がある。中国では長年にわたり、大皿用の取り箸が使われていなかった。そのため、それぞれの会食者が自分の箸を使って、大皿の料理を自分用の小皿に移す。大皿の料理を自分の箸で他の会食者の小皿に移すことが、親愛の情を示すマナーにもなった。当然ながら、伝染病に感染している人がいれば、その他の人にうつりかねない。だから政府も、日本などに習って取り箸を使うことを呼びかけてきた。会食者それぞれの料理を最初から別の皿に盛れば、さらに安全だ。中国の食文化は長い歴史を通じて改良されてきた。われわれは食文化のより望ましい状態を、今後も模索していかねばならない。

食の世界で「輸出」と「輸入」の発生は必然

中国の食文化は、世界各地の食文化の中でも、とりわけ存在感がある。さまざまな国で、中国料理店が定着した。中国料理の文化発信力は極めて強く、定着先の食をめぐる文化に影響を与える。私は一時期、仕事のために日本に滞在した。日本では例えば、「麻婆豆腐」を「マーボードウフ」と呼んでいる。正しい中国語とは言えないが、さりとて純粋な日本語式の発音でもない。つまり、中国料理が日本語の世界に新たな要素を追加したことになる。

中国料理について、中国はまぎれもなく文化の発信源だ。われわれは中華の食文化の伝承者として、伝統的な調理文化を維持した上で、伝統を革新しつつ残していかねばならない。世界中のさまざまな味の好みを持つ人に、中華料理をさらに受け入れてもらえるように努力したいものだ。

われわれは近代以降も西洋の料理や西洋の食文化を受け入れてきた。改革開放が本格化してから、この動きは特に急速になった。現在では、中国の食文化が改めて、国外に伝播しつつある。方向性では逆だが、同様の現象が進行しつつある。(構成/如月隼人




※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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