人生90年の足跡―体験で語る日本と中国―(8)日中国交正常化時の記者接待係を担当

凌星光    2023年5月13日(土) 15時0分

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コラム「人生90年の足跡―体験で語る日本と中国―」第8回は「日中国交正常化時の記者接待係を担当」。

8.日中国交正常化時の記者接待係を担当

当時、新しい仕事に就くということは、政治的問題はなく、信頼できる幹部ということを意味します。1971年、河北大学の日本語学科の創設に携わることになりました。キッシンジャーの日本頭越しの訪中によって、米中関係が改善に向かうとなれば、日中関係も打開できるという思惑の下、周恩来総理が各大学に条件のあるところは日本語科を開設するようにと号令をかけたのです。

1972年9月、田中角栄首相一行が訪中することになり、中国外交部は全国から日本語ができる人材を集めて、応対準備に取り掛かりました。私と妻も動員され、妻は外交部報道官付きの通訳を、私は記者団付きの通訳を担い、微力を尽くしました。この歴史的な重要イベントに参加できたことは誠に光栄なことでした。

その後、商務印書館から「日漢ポケット詞典」編集の依頼を受け出版しました。1973年には、周総理が直接サインしてお招きした「京都大学人文科学研究所訪中団」一行を迎える仕事に携わりました。これは中国が最初に受け入れた日本社会科学学者訪中団でした。1975年には毛沢東選集第5巻の日本語翻訳に参加しました。そのおかげで、翌年、周恩来、朱徳、毛沢東ら初代指導者の告別式に出席できました。

以上のことから分かるように、「文化大革命」の後期に私は復職して、日中国交正常化関連のさまざまなイベント、プロジェクトに参加しました。その後に公開された資料などから、私が経てきた仕事のすべてが、周恩来をはじめとする実務派が四人組との闘争を有利に展開する重要な時期であったこと、四人組を粉砕する準備が醸成された微妙な時期であったことが分かりました。また、米中関係改善と日中国交正常化は、政府レベルの交流を通して西側先進諸国の発展ぶりが中国社会に伝わり、1978年の改革開放政策への転換に向けての重要な助走期であったことが分かりました。この時期、私は日本の経済代表団や政府代表団との交流にも携わり、中国の大転換に一定の貢献ができたことは幸いであったと思っています。

■筆者プロフィール:凌星光

1933年生まれ、福井県立大学名誉教授。1952年一橋大学経済学部、1953年上海財経学院(現大学)国民経済計画学部、1971年河北大学外国語学部教師、1978年中国社会科学院世界経済政治研究所、1990年金沢大学経済学部、1992年福井県立大学経済学部教授などを歴任。

※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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