人生90年の足跡―体験で語る日本と中国―(4)1953年に興安丸船にて帰国

凌星光    2023年4月15日(土) 16時0分

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コラム「人生90年の足跡―体験で語る日本と中国―」第4回は「1953年に興安丸船にて帰国」。

4.1953年に興安丸船にて帰国

一橋大学で学んだ1年余りは、実に有意義なものでした。友人が多くできたし、先生との交流もありました。もともと卒業してから帰国する予定でしたが、興安丸にて無料で帰国できること、また祖国が歓迎しているということで早期帰国を決めました。

もっとも、その根底にはブルジョア統計学を学んでも役に立たないという誤った判断がありました。私は高校時代に数学クラブをつくったほど数学が得意でした。社会科学にも興味があり、数学も生かしたいので、経済統計学に優れた一橋大学を選びました。ところが「ソビエトの統計理論」を読んでみると、ブルジョア統計理論と社会主義統計理論の違いが説かれ、日本でブルジョア統計理論を学んでも、中国に帰ってから役に立たないと思うようになったのです。また、帰国したらソ連に留学するチャンスがあるのではないかと思ったことも帰国の動機の一つでした。とにかく当時のソ連は 進歩的学生の憧れの的でした。

私が帰国することにしたと話すと、友人たちからは「日本の革命を放棄して、解放された中国に行くのか」と言われ、半分うらやましがれ、半分責められたりしました。

私は第一次帰国集団約4000人の一員として、1953年6月、舞鶴で興安丸に乗船しました。その前年に日本は台湾の中華民国政府と「日華平和条約」を締結したばかりでしたから、国民党政府の反対に遭い、日本政府は日本人引き揚げ用の興安丸を利用して在日華僑を帰国させることには容易に同意しませんでした。そこで外務省に行って座り込みをし、許可するよう働きかけました。また、あり得るであろう国民党政府の艦艇による妨害、襲撃に対して速やかな対応ができるようにと、船内で自主的に「防御行動隊(?)」を組織したことを記憶しています。

一緒に帰国した同僚の中には、後悔した者もいるようですが、帰国した私たち兄弟3人は、父親の反対を押し切って自ら選んだ道であり、皆前向きに取り組んできました。

■筆者プロフィール:凌星光

1933年生まれ、福井県立大学名誉教授。1952年一橋大学経済学部、1953年上海財経学院(現大学)国民経済計画学部、1971年河北大学外国語学部教師、1978年中国社会科学院世界経済政治研究所、1990年金沢大学経済学部、1992年福井県立大学経済学部教授などを歴任。

※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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