大江健三郎さんは「魯迅を崇拝する多面の作家」だった―中国メディアが紹介記事

中国新聞社    2023年3月27日(月) 17時30分

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中国メディアの中国新聞社はこのほど、3月3日に他界した作家の大江健三郎氏(1935-2023年)を改めて紹介する記事を発表した。

中国メディアの中国新聞社はこのほど、3月3日に他界した作家の大江健三郎氏(1935-2023年)を改めて紹介する記事を発表した。以下は、同記事の要旨をまとめた文章だ。

魯迅博物館では姿をくらまして大泣き

大江健三郎氏は少なくとも6回は中国を訪れている。そして文学者をはじめとする中国側と頻繁(ひんぱん)に交流した。大江氏の訪中については、こんなエピソードがある。2009年1月16日には北京市内の魯迅博物館を見学した時のことだ。一行は、大江氏の姿が見当たらないことに気付いた。あたりを探し回ったところ、大江氏は床にうずくまっていた。大江氏の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。

大江氏は魯迅(1881-1936年)の手書き原稿を見て、感激のあまり自分の感情が暴走するのを感じた。周囲の人に迷惑をかけてはいけないと思い、一行から離れて一人で泣いたという。大江氏にとって、魯迅は常に「精神の師」だった。

大江氏は9歳の時に、文学好きだった母から魯迅の小説集をもらった。そして「孔乙己」という作品に感銘を受け、大人になったら同作品に登場する「物語を語る少年」になって、社会や人間を観察したいと思うようになった。23歳の時に初めて発表した小説の「奇妙な仕事」は、魯迅の「白光」に触発されたものだった。大江氏は「奇妙な仕事」を母にも読んでもらったが、評価してはもらえなかった。母は、魯迅の「故郷」を目標に創作をしてほしいと述べ、当時の大江氏のレベルは遠く及ばないと断言したという。

あまりにも厳しい母の要求だったが、大江氏は努力を続けた。そして、短編小説の「飼育」は芥川賞を受賞した。1967年に発表した「万延元年のフットボール」は大きな話題になった。大江氏は同作品により谷崎潤一郎賞を受賞した。現在もまだ破られていない最年少での受賞だった。

「万延元年のフットボール」は神話色の表現方式を通じて現実と歴史のつながりを描いた。大江氏はこの作品と魯迅のつながりに言及していないが、この作品で大江氏が用いた手法は、魯迅の「故事新編」とは極めて密接な関係がある。大江氏は晩年になっても魯迅を精神の指導者とみなした。魯迅の文章をすぐに引用することさえできた。

中国人文学者と親交、莫言氏には「境遇が同じだ」

大江健三郎氏は1960年の最初の訪中で、郭沫若(1892-1978年)、巴金(1904-2005年)、老舎(1899-1966年)、茅盾(1896-1981年)、趙樹理(1906-1970年)らの、当時の中国を代表する文学者と親交を結んだ。大江氏は2005年に巴金が他界した際には、「巴金氏の『随想録』は、時代の流れの中で作家や知識人がどのように生きるべきかという問題についての永遠の模範を打ち立てた。私はその模範を仰ぎ見て、自分自身を振り返っている」と書いて、その死を悼んだ。

大江氏と同じくノーベル賞作家である莫言氏の友情も興味深い。大江氏は1994年にノーベル文学賞を受賞した時期から莫言氏の作品を推薦し、ノーベル文学賞を受賞するに違いないと早くから予言していた。大江氏は2002年に、莫言氏を故郷の山東省高密市に訪ねた。、大江氏は莫言氏とその家族と一緒に餃子を食べて、大いに歓談した。

大江健三郎氏は、自分と莫言は生まれ故郷の小さな村から出発して、故郷を離れた後に感じたことや心の傷を文学の手段を通じて世に広めた点でとても似ていると感じていていた。莫言氏は、大江氏も魯迅のように「絶望の中の希望」を求めていると感じた。大江氏の死を知った莫言氏は、とりわけ長く苦しんだという。

川端康成の描く日本が「美しい日本」だとすれば、大江健三郎氏の描く日本は「曖昧(あいまい)な日本」だった。大江氏は講演で、物事の曖昧な進め方によって、日本にアジアで侵略者の役割を演じることになったと論じたことがある。大江氏は2006年9月に中国を訪問した際、中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館を見学し、南京大虐殺生存者と座談した。大江氏は生涯、軍国主義に反対した。

大江氏は、近現代の日本は西洋に全方位的に扉を開いたが、日本文化は西洋の理解を得られていないと考えた。大江氏の作品は、近代化の過程で西洋と自らの伝統にはさまれて生じた「曖昧な日本人」を表現している。

枠にはまらない「複雑な多面の人」だった

大江健三郎氏の作品は知識人の間では人気を博したが、さまざまな要因が重なり一般的な読者は大江作品になかなか親しまなかった。この現象は日本や中国だけでなく、世界中で見られる。全世界に向けて映像化された作品もあるが、総じて反響は鈍かった。大江氏自身もこの現象に気づいており、あるとき北京でイベントに参加した際、「中国での村上春樹をめぐる盛り上がりに、“ある種の嫉妬”すら示している」と茶化されたことがある。

大江氏の生涯は矛盾に満ちていた。自らを律し、平和、反戦、美しいものを追い求めた。このような積極的な面がある一方で、同時に重圧に押しつぶされたり、時にうつの発作を起こしたり、就眠のためにアルコールに頼るなどの心の暗黒面もあった。しかし、多くの場合に大江氏は「普通の人」だった。大江に接した人は、想像されるような厳粛な知識人ではなく、常にユーモアや滑稽さを見せていたと言う。

総じて言えば、大江健三郎氏は特定の枠に収まった作家ではなく、リアルで複雑な人間だった。人は、今は読めなくても未来のどこかの時点で、彼に近づき、感情を共にすることができる。今も、大江氏の全ての作品が中国語に翻訳されたわけではない。ただし人民文学出版は全40冊からなる大江作品集を出版する計画で、第1期分の14冊はまもなく出版される予定だ。中国語訳に取り組んでいるのは、日本文学研究者であり翻訳家である許金竜氏だ。許氏は、「私たちは大江さんがやり残した道にそって歩み続けねばならない。大江さんがやり残したことを我々がやる。やれるだけやる。到達できるところまで到達する」と述べた。

大江氏の作品は今後恐らく、中国語世界でより大きく、より深い影響力を持つようになるだろう。大江作品は1994年のノーベル文学賞授与に際して、「詩的な想像力によって、現実と神話が密接に凝縮された想像の世界を作り出し、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている」と評価された。(構成 / 如月隼人

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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