<日本人の忘れられない中国>日中の棋士が集まるとなぜか腕相撲大会に―囲碁九段棋士

日本僑報社    2023年3月26日(日) 15時0分

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私が読売新聞社主催の囲碁訪中団に加わらせて頂いたのは1981年6月の事。当時19歳、六段だった私は、大変大きな刺激を受けた。

囲碁の歴史は古く、中国で生まれたのは3000年以上も前の事とか。また日中囲碁交流の歴史も古く、古くは遣唐使の時代から、近代に於いても国交回復前から交流は盛んで、国交回復時「ピンポン外交が実った」と多く言われましたが、囲碁外交も大きな役割を果たしました。

私が読売新聞社主催の囲碁訪中団に加わらせて頂いたのは1981年6月の事。当時19歳、六段だった私は、大変大きな刺激を受けたし、後に10回程訪中の機会は有りましたが、この時の思い出は強く鮮明に残っています。

訪中団は橋本昌二九段を団長に棋士7名。私は最年少でした。読売新聞社の瀬尾さん、それに若い通訳の王さん、女性の通訳、葉さんの10名で3週間に渡って中国各地を転戦し、中国棋士と7局ずつの対戦を行います。

最初の訪問地は北京。夕食会の前に中国の棋士から中国ルールと日本ルールの違いについて、詳しい説明を受けました。私達もルールの細かい点で違いが有るのは知っていましたが、全く知らない話も有り、皆感心し感謝した事です。

また自らの負けを認める「投了」の作法にも違いが有り、座敷での対局が主流だった日本では投了の合図として頭を下げ「負けました」と声を掛けます。対して中国では対局は椅子席。投了の際には椅子から立ち上がり相手に握手を求めます。この事も友好ムードを盛り上げた気がします。

また、通訳以外にも大変お世話して頂いた王さんは、団員皆と沢山お話もしたし、大変奇麗な日本語と余りに博識な事に対して私に嫉妬心が芽生えた様で、ある時「王さん、立ちションという日本語をご存じですか?」「それは聞いた事有りませんね」「そうですか!」嬉々として解説した事、いくら半分子供だったとは言え、今思えば汗顔の至りです。

北京で二局の対戦を終え次の訪問地、安徽省合肥へ。安徽省の体育協会会長から日程等の説明を受ける。因みに中国では囲碁は体育に分類され、北京オリンピックの際に囲碁の試合も行われました。

「明日は対局。我が安徽省には中国三名山の一つ黄山が有り皆さんをご案内します。明後日、麓に移動し翌日も対局。その翌日に黄山へ登り二泊します」

この説明に瀬尾さんが青ざめる。私達は対局をしに来たんだ。観光に来た訳ではないと。

「麓まではバスで、たったの13時間。山登りは4時間半程を階段で登りますが、私も一緒に参りますのでご安心を」

橋本団長より遥か年上の会長に、そう言われては、瀬尾さんも退散するしか有りません。団長始め仕方ないな、という声が多かったが、私は楽しみで仕方有りませんでした。「麓まで、たった13時間」には、流石に広い国だけの事はあると、皆感心しきりでしたが。

対局の翌日、早朝からバスで移動。広大な景色の中をひた走る。途中、お手洗いを借りるのに民家の方と交渉する。パンなどの詰まったお弁当を一つ差し出すが、その座席の下の品は何だ?と言われビールも一本付ける事に。そうこうしている間に遠くから子供達が大勢集まって来て、物珍しそうに見ている。まるで宇宙人になった気分とは、ある団員の言葉。

最後の方は山を幾つも超えて夕刻、麓のホテルに到着。翌日の対局、皆に疲れた風は無く無事に終え、いよいよ翌日は登山。少し前に柔道の選手団が来たが日本人は二組目との事でした。対局を終えた中国選手も一緒ですが、皆さん黄山は初めて、との事。階段は真っ直ぐ登ると大変疲れるので、斜め斜めに登ると良い。その時教わった事で、今でも活用しています。10年後にはケーブルカーが出来る予定との事でしたが無事開通し、現在では楽に登る事が出来るそうです。

色々な物を運ぶ人達が居て、中には天秤に掛けた袋に生きた子豚を乗せ二人して運ぶ人も。途中、重そうな荷物を背負った女性に話し掛けられる。困った様子の私に気付いた王さんが来てくれたので通訳をお願いすると年齢は17歳。40キロの荷物を毎日運んでいる、との事。化粧っ気の全く無い、明るい笑顔は、本当に美しかった。

絵に描いたような水墨画の世界、時に「奇石」と呼ばれる不思議な光景を目にしながら、無事に一泊目もホテルに到着。広々とした平地が有り、鶏が走り回っていたのが、何故か強く記憶に残っています。

翌日は半日掛けて黄山の中を縦走し、夕刻前に山小屋に到着。1泊目のホテルが立派過ぎたので、こちらの方が山の気分を味わえた気がします。

夜、皆で外に出ると中国選手団と一緒になりましたが、日本語が堪能な棋士も多く、会話には困りません。何故か当時は日中の棋士が集まると恒例の腕相撲大会。力自慢の棋士が登場し双方、応援も賑やかい事です。最近覚えたという「北国の春」を日本語で披露してくれた棋士もいて、楽しい夜は遅くまで続きました。

下山後、杭州上海と転戦し帰国の途に就くまで、楽しい思い出も沢山出来ましたが、黄山での色々な経験は貴重ですし、今から経験出来るものでも無い事柄でしょうから尚更です。

成績はと言うと、全体では少し勝ち越しで橋本団長は中国のトップ棋士相手に貫録の全勝。私は3勝4敗の負け越しでしたが、当時の実力からすれば、妥当な所だったと思います。

因みに、この時の通訳の王さんは、現在の王毅外務大臣(※執筆当時)、その人です。

■原題:勝負より友好 ―囲碁交流、初訪中団記

■執筆者プロフィール:清成哲也(きよなり てつや)九段棋士

1961年宮崎県生まれ。小学校4年生の時に父から囲碁を教わる。1975年に上阪し倉橋正蔵八段に入門し内弟子に。1976年に入段(プロ入り)、1986年に九段昇段。タイトル獲得数二。1992年度NHK囲碁講座講師。1981年の初訪中以来、訪中数は10回程。囲碁に於いて日本が秀でていた時代から中国また韓国が力を付け、追い付き、追い越して行く様をこの目で見て体感して来た。

※本文は、第5回忘れられない中国滞在エピソード「驚きの連続だった中国滞在」(段躍中編、日本僑報社、2022年)より転載したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。


※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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