靖国神社・日本大使館放火の中国人、帰国後の生活困窮に嘆き節「両親と疎遠、半年収入ない」(2/4)―中国

Record China    2014年7月7日(月) 16時2分

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7日、北京青年報は、2011年に靖国神社の神門に放火し、翌12年にも逃亡先の韓国で日本大使館に火炎瓶を投げつけた中国人の劉強氏に関する記事を掲載した。写真は靖国神社。

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2014年7月7日、北京青年報は、2011年に靖国神社の神門に放火し、翌12年にも逃亡先の韓国で日本大使館に火炎瓶を投げつけた中国人の劉強(リウ・チアン)氏に関する記事を掲載した。

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学校を退学になった劉強は福島に向かい、被災者のための心理カウンセリングや献血ボランティアに参加した。福島で過ごした半年間は平穏だった。

だが転機となったのは2011年12月8日。来日した韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領(当時)が慰安婦問題の解決を求めたのに対し、野田佳彦首相(当時)は強硬に拒んだ。このニュースに屈辱と怒りを覚えた劉強は、白いTシャツの上に赤ペンで「謝罪」の二文字を書いた。「慰安婦だった祖母を思い出した」と劉は語る。

「日本の政界に警戒心を」「右翼主義者に警鐘を」と決意した劉強は、靖国神社の壁にスプレーを吹き付けた。だが日本人の友人から「それでも男か」と腰ぬけをなじられたため、危険な道を歩むことを決心した。1週間かけて計画を練り、逃走ルートも定めた。

大事を決行するのは12月26日に定めた。毛沢東が生まれた日であり、さらに重要なのは、この日が祖母の命日だからだ。決行時間を午前4時としたのは、新四軍の「四」と軍国主義の「死」を重ね合わせたためだ。

決行前日、劉強はガソリン4缶を購入し、福島から電車で東京へ向かった。午後に下見をした際、神門が厳重な警備の死角になっていることに気付き、攻撃目標に定めた。ホテルと靖国神社を三往復して、犯行のための見取り図を描き上げた。この夜、劉が眠ったのはわずか2時間余りだった。

午前2時、劉は黒ダウンをはおり、マフラーで顔を隠し、神門から徒歩5分の地点まで車で向かった。3時50分、下見で訪れた通用門に到着。警戒に当たっていたパトカーが離れたすきに、1メートルの高さの塀を乗り越え、木の下に身を隠した。3時55分、あらかじめ用意していたマッコリの瓶にガソリンを入れ神門前へ移動し、ガソリンをまいた。4時、持っていたライターで火をつけた。

放火現場から逃走する際、劉強は服を着替え、途中であえてタクシーも乗り換えた。韓国へと向かう成田空港で、警察にパスポートを繰り返し調べられた時は、さすがに不安がよぎったという。劉は韓国へと逃走した。(翻訳・編集/NY)

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