円明園の破壊、文明交流史で回避に失敗した悲劇―専門家2人が解説

中国新聞社    2022年12月19日(月) 23時30分

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円明園は仮に現在まで残っていれば、間違いなく世界で最も特異で豪華な庭園および建築群だったはずだ。しかし戦乱の中で破壊され、今では残骸を残すだけだ(写真)。われわれはこの歴史から、何を学べるのだろう。

現在の北京市市街地北西部に建設された円明園は、清朝の雍正年間(1723-1735年)に本格的な建造が始まった大規模な庭園群を伴う離宮だった。西洋と中国の建築と造園の最高の技を惜しげもなく投入し、取り寄せた家具類やその他の装飾品も最高級だった。現在も保存されていたら、世界で唯一無二の、東西文明の粋を合体させた特異な文化財だったはずだ。しかし、1856年に勃発したアロー戦争(第2次アヘン戦争)中の1860年に、北京に進軍した仏軍は円明園で文化財の大規模な略奪を行い、英軍は円明園を破壊した。中国メディアの中国新聞社はこのほど、北京外国語大学シルクロード研究院の呉浩執行院長と中国フランス文学研究会理事でもある中山大学の程曾厚教授に取材した内容をまとめて、往時の円明園や文化上の価値を解説する記事を発表した。以下は、同記事の主要部分に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

■平和と繁栄がもたらした、東西文明の豪華な結合

円明園は繁栄期の清帝国の象徴であり、外国からの賓客をもてなす主要な場所の一つだった。英国から始めて清朝に派遣されたジョージ・マカートニー伯爵(1737-1806年)が率いる使節団も円明園を訪れている。円明園を訪れた外国人は、円明園の盛況ぶりに驚いた。

円明園は実際には、円明園、長春園、綺春園(後に万春園と改称)から成り、円明三園という総称もある。欧州風の庭園や建築が導入されたのは長春園で、その建物は西洋楼と呼ばれた。乾隆帝(在位:1735-1796年)はイタリア人のジュゼッペ・カスティリオーネ(1688―1766年)やフランス人のミシェル・ブノワ(1715-1774年)に、噴水関連の設計を命じた。


往時の円明園洋館の再現図によれば、屋根の様式はは主体建築とは違って中国伝統建築の瑠璃瓦の屋根の部分が多かった。そして近くに配置された太湖石や竹亭などとともなって、東洋的な雰囲気を醸し出していた。西洋館を、「スーツを着て中国風の丸帽子をかぶっっていた」とからかう人がいるのも無理はない。

しかしそれでも円明園は、東西の造園建築芸術の精華を交流させ融合させた歴史の証しであり、円明園の建築は人類史においての、異なるの文明の平和交流の成果だった。

今から200年以上も前に円明園の建造に参加した東西の技術者は「自然を師とする」を理念とする中国の造園技術と、「対称と比例」を重んじる西洋の規則的なデザインを有機的に結びつけた。

世界に目を向けても、多くの文化の中から自らに有益な成分や合理的な要素をくみ取った後に、それらを溶解して鋳造してこそ、奥深い自らの文化文明の一部にすることができる。

欧州文明の形成と発展も、そのような経路で実現した。シュメール文明を先駆けとするメソポタミア文明はかつて、ギリシャ文明の「師」だった。キリスト教は東方に発生した宗教だ。そして欧州に伝わりギリシャ文明と融合して、西洋文明の基礎になった。

欧州では18世紀、100年に及ぶ中国ブームが発生した。フランス啓蒙運動の旗手であり、中国に親近感を抱いていたボルテール(1694-1778年)は、「哲学者として世界を理解しようとするならば、まず東洋に目を向ける。東洋はすべての芸術のゆりかごであり、東洋は西洋にすべてを与えた」と述べた。

■円明園の破壊に憤りを表明した西洋人もいた

しかし人類の歴史は、文明の扱いについての悲惨な教訓に満ちている。第2次アヘン戦争中の1860年、英仏連合軍は円明園を略奪し、破壊した。英軍遠征指令長官だったエルギン伯は、清朝側の保護虐待への報復として、円明園を燃やすことを命じた。円明園は3日3晩、燃え続けた。「庭園の中の庭園」、「世界の庭園の模範」、「東洋のベルサイユ宮殿」などと言われた円明園が、わずか数日間で容貌を一変させた。

西洋にも円明園の破壊を憤った人はいた。例えば作家のビクトル・ユーゴー(1802-1885年)だ。円明園の西洋楼の近くには、ヒューゴーの半身像が設けられており、その傍らにある書物の形をした石碑には、ヒューゴーが書いた「バートレ大尉への手紙」が刻まれている。文面は「ある日、二人の強盗が円明園に入ってきた。一人は略奪し、一人は放火して、力を合わせて円明園を徹底的に毀損(きそん)した。歴史の中で、二人の強盗はそれぞれ、フランス、英国と呼ばれている」だ。

この手紙の中国語訳者であり、フランス政府から教育功労賞という勲章を受章した程曾厚教授は、円明園の焼き討ちは、例え清朝に対する報復行為で、皇帝を罰するものだったとしても、それ以上に「文明に懲罰を加える行為だった」と論評した。


■円明園だけではない、破壊は瞬く間に現実のものになる

円明園にあった建築の8割以上は中国式だったが、1860年の破壊により中国式庭園建築はほとんどなくなった。洋館の建物は主に石材を使って造られたために、破壊されても石材は残る。そのため現在では、「円明園全体に洋館がたてられていた」と誤解する人もいる。

文明の樹立と存続は困難だが、破壊は瞬く間に成立する。円明園が破壊されたのは人類の歴史の悲劇であり、それがもたらした経済的価値ないし文化的価値の損失は計り知れない。中国と西洋という異なる文化文明が融合した人類の財宝は台無しになった。ギリシャのパルテノン神殿、シリアのバルシャミン神殿、李氏朝鮮の永明寺など、あまりにも多くの世界の「文化の宝」が戦乱や紛争で破壊された。人類文明の多様性の多くが、剥奪と侵略の血なまぐさい歴史の中で失われた。

文明と文明の交流が、常に破壊をもたらしたわけではない。シルクロード交易は平和な時期に発展したし、鄭和の航海は侵略戦争とは無縁だった。しかし、西洋が勃興すると、他の文明の接触には血なまぐさい破壊がつきものになった。これは東西交流における痛ましい災難であり、今日に至ってもなお癒すことのできない傷を残している。非西洋諸国が国際的舞台で活躍するようになった現在は、異なる文明の調和が改めて、世界にとっての大きな課題になっている。(構成 / 如月隼人

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