孔子の故郷に息吹く伝統、瑠璃瓦の生産と発展に情熱注ぐ「匠」たち

Record China    2022年10月22日(土) 15時50分

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孔子の故郷として知られる山東省の曲阜市は、中国でも重要な瑠璃瓦(るりがわら)の生産地でもある。短期的ながらいったんは途絶えた瑠璃瓦づくりは、「匠の情熱」により復活し、さらに飛躍を遂げようとしている。

孔子(紀元前552年ごろ-同479年)の故郷として知られる山東省の曲阜市は、中国でも重要な瑠璃瓦(るりがわら)の生産地でもある。瑠璃瓦とは中国の伝統的な建築の中でも、特に権威ある建物に使われた、釉薬を施した瓦だ。瑠璃瓦への需要は高まっているという。

最近では古建築の補修や古建築を模した建物の建造が増えたために、瑠璃瓦への需要は高まっている。生産効率の向上のために先進的な設備や技術も導入されたが、職人技による手作業が欠かせない部分もある。

例えば、中国の古建築の基本的な形は上方から見て長方形で、屋根は4面で構成される。屋根と屋根が交差するへりの部分には、霊獣の像が置かれる。この霊獣は、魔除けや火除けの意味があるとされる。高度な造形力が求められるため、製作には職人による手作業が必要だ。曲阜市内にある大荘瑠璃瓦廠で働く73歳になる瓦造形職人の劉洪江さんは、「純粋な手作業でしか、あの味を出すことはできない」と、誇らしげに語った。その他の細かな造形部分でも、職人の手作業が必要だ。

大荘瑠璃瓦廠が設立されたのは明代の弘治年間(1488-1505年)だった。明代正徳3年(1508年)には曲阜にある孔子廟に納めるために、瑠璃瓦廠は拡張され、中国三大瑠璃瓦廠の一つとされるようになった。孔子廟や孔子の嫡系子孫が暮らす孔子府が修繕する際に必要とされる瑠璃瓦は大荘瑠璃瓦廠で作られてきた。

瑠璃瓦の製作には造形、釉薬かけ、焼成など十数の工程がある。1カ月程度をかけて完成されるが、工程の一つに手抜かりがあっても、失敗品になってしまう。瑠璃瓦の風合いや霊獣の気品の出来栄えは、職人の腕次第だ。


大荘瑠璃瓦廠の歴史が常に順風満帆だったわけではない。社会が激動した1960年代には、瑠璃瓦の生産が中断した。生産を復活させることに尽力した一人が、今年53歳になる王樹宝さんだ。この道に入って40年近くになり、今では国家級非物質文化遺産(無形文化遺産)伝承人に指定されている。王さんは往時を振り返り、「私は小さいころから瑠璃瓦廠で育った。この技術を、われわれの世代で断絶させてはならない」と考えたと語った。強い責任感のもとに、古い世代から瑠璃瓦廠を引き継ぎ、再生の道を切り開いたという。

とは言え、楽な仕事ではなかった。材料となる土選びの段階から、各工程に至るまで、「謎」は多かった。王さんら職人は研究に没頭し、難問を一つ一つ解決した。技術が失われて久しかった孔雀藍と呼ばれる釉薬も、見事に復活させた。

伝統的な瓦を手掛けているだけではない。人々が手軽に楽しめるような、置物やアクセサリーの生産も始めた。題材はかわいい小動物、慈悲深い菩薩像、勇壮な武将などだ。かつては格式ある建物だけに利用された瑠璃瓦の技術が、人々の日常生活の場に入ることになった。

王さんの「夢実現の旅路」が終わったわけではない。今後は中国瑠璃瓦博物館を建設したいと考えている。「600年以上の歴史を持つ曲阜の瑠璃瓦の焼成技術を文献や実物の形で全面的に示す計画です。同時に、技術体験館も一般開放して、来場者一人一人が体験し、感性を高められるようにします」との考えだ。

王さんは、無形文化遺産の産業化は「二足歩行」を堅持せねばならないと考えている。まずは、伝統的な手法の本来の味は残さねばならない。これは大原則だ。しかしその一方で、市場の需要としっかりと結合し、新たな形で人々の多元的な求めを満足させねばならない。王さんは、この両者をしっかりと結びつけてこそ、貴重な伝統を末永く守っていけると考えている。(翻訳・編集/如月隼人

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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