手塚治虫も宮崎駿も影響受けた中国アニメ―歴史と現状を解説

中国新聞社    2022年9月7日(水) 11時30分

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日本は世界に冠たるアニメ王国だ。だが、手塚治虫氏も宮崎駿氏も中国アニメの影響を受けたことをご存じだろうか。写真は中国アニメの各時期の代表作品である「鉄扇公主」、「大閙天宮」、「西遊記之大聖帰来」。

日本は世界に冠たるアニメ王国だ。だが、日本アニメが創成期から中国アニメの多大な影響を受けたことをご存じだろうか。中国はかつて「東洋一のアニメ強国」だったのだ。中国のアニメ作品はその後の一時期、日本アニメなどの後塵(こうじん)を拝したが、現在は「第二の出発期」だという。中国メディアの中国新聞社はこのほど、中国アニメの歴史的推移と現状を紹介する記事を発表した。以下は、記事に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

■手塚治虫少年も感激、中国アニメの古典的傑作「鉄扇公主」

中国アニメの父とされるのは万籟鳴(1900年1月18日-97年10月7日)、万古蟾、万超尘、万涤寰らの万氏兄弟だ。出身地は江蘇省南京市だが、仕事を開始したのは上海市内の小さな小屋だった。彼らは22年に広告目的の短編アニメを制作した。そして26年に中国にとって初の本格的アニメと言える「大閙画室(アトリエは大騒ぎ)」を完成させた。

万氏兄弟は30年代になると、左翼文芸思想の影響を受けて社会の現実を反映する作品を作り始めた。31年に九一八事変(満州事変)が、37年には七七事変(盧溝橋事変)が発生した時期だ。万氏兄弟の作品の重要なテーマに「抗日」がある。

万氏兄弟は米ディズニーの「白雪姫」に触発された上演時間80分の「鉄扇公主(鉄扇姫)」を創作した。土台となったのは「西遊記」の物語だ。「鉄扇姫」に登場する牛魔王は、日本の侵略者を暗喩している。民衆はこの作品に鼓舞された。「鉄扇姫」は「白雪姫」などに続く、世界で4番目の長編アニメドラマだった。

「鉄扇公主」

「鉄扇姫」の公開は41年だったが、1カ月半ほどで東南アジアや日本を席巻した。日本ではある少年がこの作品に魅了された。手塚治虫だ。数十年後の81年、手塚は上海に来て念願の万籟鳴との面会を果たした。手塚は万の手を握って「私はあなたの作品を見て、アニメをやることになったのです」と言った。

万氏兄弟は54年に、間もなく設立される上海美術電影製片廠(上海美術映画製作所の意、略称は「上美影」)に加わることなった。上美影は57年に正式に発足した。名称に「美術」があることが象徴するように、当時のアニメーターは、自らの「美」を作品にどう反映させるかに腐心した。自らの民族の言葉で物語を語ろうとしたのだ。上美のスローガンは「民族の形を探る道」だった。

その後数年して、上美影はアニメ作品「誇り高き将軍」、人形アニメ作品「神筆」、カラー切り絵作品「八戒がスイカを食べる」、水墨画アニメ「オタマジャクシが母を探す」などを次々に完成させた。

西遊記を題材にした59年作品の「大閙天宮(天宮大騒ぎ)」の制作では、チームを結成して民族芸術の多くの分野から“栄養”をくみ上げた。しかし、伝統的な芸術をそのまま踏襲したのではない。背景画にはチベット絵画の濃厚な画風を主とし、メキシコの壁画も参考にした。人物の動作デザインは京劇を参考にした。つまり制作関係者は再創造を行った。

■「大閙天宮」に世界が仰天、「ディズーニーも到達できない」の評価も

「大閙天宮」は78年のロンドン国際映画祭で作品賞を受賞した。世界のアニメーション界は仰天した。仏「ル・モンド」紙は、「『大閙天宮』は米ディズニー作品の普遍的な美しさを備えているだけでなく、ディズニーの方法では到達できない中国の伝統的な芸術スタイルを完璧に表現している」と評した。

「大閙天宮」に続いて制作された作品の多くは今も人々をうならせている。代表的な作品には79年の「哪吒閙海(ナーザの大暴れ)」、83年の「天書奇譚」などがある。

北京電影学院動画学院の陳廖宇准教授は中国新聞社がかつて取材した際に、最初期の「鉄扇公主」は“他人の言葉”を使った作品だったと論じた上で、「『大閙天宮』は中国の美的感覚、技巧、アニメ視聴言語で全体が完全に形成された象徴的作品」などと語った。

中国のアニメ作品は、国際的な賞を次々に受賞した。中国的な美学の香りを濃厚に取り込んだ中国のアニメ作品は、国際的に「チャイナスクール」と呼ばれるようになった。

芸術的な作風で知られる日本の宮崎駿監督は、「チャイナスクール」の影響を強く受けた。宮崎監督は84年に上海を訪れ、上美影と交流し、上美影の作品を学習した。上美影に足を運んだ際には「聖地巡礼」のような気持だったとも伝えられている。宮崎監督は後に、余白が多い作風は水墨画アニメ「オタマジャクシが母を探す」にヒントを得たと回想している。

■外国アニメに押され中国アニメ衰退、しかし「復活の種」も獲得していた

80年を過ぎると、外国製アニメの最盛期が到来した。日米アニメ界はすでに産業化に成功していた。産業化モデルを利用して制作された外国アニメが安い価格で中国市場に提供された。代表的作品としては日本の「ドラえもん」、「スラムダンク」、米国の「ミッキーマウス」、「スマーフ」などがあった。

80年代半ば以降の中国では、外国のアニメ制作の「下請け加工」をする企業が大量に設立された。深セン、珠海、広州では、電子工場やアパレル工場のすぐ隣にアニメーション加工工場があり、描線、彩色、背景など、極端に高度な技術を必要としない分野を担当した。人件費の安さを“武器”にしてアイフォンの組み立てを行うフォックスコンの工場と同じ構造だった。

中国アニメは「自分の言葉」を忘れていった。90年代に出現した観客の記憶に残る作品は、上美影が手掛けた初の“大型商業作品”の「宝蓮比」ぐらいだった。2000年代に出現した中国のアニメ作品は低年齢層向けの「喜羊羊与灰大狼(シーヤンヤンとホイタイラン)」と「熊出没」、さらに全面的な西洋化で惨敗した「魔比斯環」ぐらいのものだ。

中国社会科学院新聞研究所の調査によると、1991年に北京で放映されたアニメのうち66.7%がアニメの輸入作品で、その半数がディズニー作品だった。2002年から03年にかけて、青少年に最も人気があったのは日本アニメで、次に米国アニメが続いた。

しかし15年のアニメ映画作品の「西遊記之大聖帰来」(西遊記 ヒーロー・イズ・バック)」の興行収入は上映からから16日間でハリウッドの「カンフーパンダ2」を抜いて中国映画史上最高の興行収入を記録した。

「西遊記之大聖帰来」

中国アニメの創成期から大活躍した孫悟空と共に復活したのは、観客の国産アニメへの興味と期待だった。19年には、もう一つの記念碑的な作品が登場した。「哪吒之魔童降世(ナタ~魔童降臨~)」だ。同作品は社会現象とも言える大ヒットを実現し、興行収入では中国映画史上の総興行収入第2位を達成した。

中国の国産アニメは、真の再復活を果たしつつあるのかもしれない。つまり現在は「第二の出発期」だ。自国による創作が不振だった20年間を振り返ってみれば、確かにかつての「チャイナスクール」は中断してしまったが、下請け作業を行うことで、中国ではアニメ産業の形成に必要な巨大な制作能力の基礎が確立された。彼らは外国の先進的なアニメの生産管理経験と技術に触れた。つまり「復活のための種」を獲得したわけだ。

そして04年からは、中国のアニメ加工業務にとって、労働コストの安いインドやベトナムが強力な競争相手となった。中国におけるアニメ加工業は調整期に入った。その結果、日本や米国向けの業務を行っていた中国企業の一部は、オリジナルプロジェクト開発の道を歩み始めた。

中国のアニメ産業にとって、歴史を通じて得られた学習内容とは、先輩と同じように、自分自身の芸術言語を獲得せねばならないということだ。アニメ監督などは自らの生活経験や文化的土壌を反映した表現手段を創出していかねばならない。(構成 / 如月隼人

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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