シンガポールの「小邦大治」はいかにして形成されたのか、中国人専門家が解説

中国新聞社    2022年6月9日(木) 23時30分

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極めて小さな国土で多くの民族が暮らすシンガポール(写真)だが、社会は安定しており経済は発達している。中国語では「小邦大治」と表現できる状態だ。シンガポールが「小邦大治」を実現できた秘訣は何なのか。

シンガポールは陸地面積が約720平方キロで、東京23区の約628平方キロよりやや広い程度だ。人口は約569万人。極めて小さな国だが、一方では中国系、マレー系、インド系など、歴史や文化が大きく異なる民族が集まる多民族国家でもある。シンガポールの社会は安定しており、経済は発達している。中国語でこのような状態は「小邦大治」(小さな国の大いなる統治)と表現できる。シンガポールが「小邦大治」を実現できた秘訣は何なのか。シンガポールや東南アジア地域を研究する山東政治政治学院の范磊准教授はこのほど、中国メディアである中国新聞社の取材に応じて、シンガポールの「小邦大治」について説明した。以下は范准教授の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

■やむなく独立、国家発足当初から問題は山積み

シンガポールの「近現代の道」が始まったのは1819年の開港だった。シンガポールは東洋と西洋を結ぶ交通の要所に位置している。そのために世界各地、特に東アジア、南アジアと東南アジアからさまざまな人種の人がやってくるようになった。

シンガポールの民族構成はCMIOと呼ばれる。すなわち、中国人(Chinese)、マレー人(Malays)、インド人(Indian)、その他(Others)だ。これらの集団は「平等に共存する」ことになっている。

シンガポールは19世紀には英国の植民地になり、第二次世界大戦中の一時期は日本軍に占領された。第二次世界大戦後は英国から独立したマレーシア連邦の一部になった。しかしマレーシア連邦がマレー人優先主義を強化すると、「人種のるつぼ」であるシンガポールは受け入れられなくなり、やむをえず独立した。

独立後のシンガポールの国内の民族関係の複雑な状況に直面していた。執政党である人民行動党は多元的で平等な民族群政策を採用し、関連制度の整備を進めた。政治、経済、社会、文化などの多くの分野で民族グループの関係を調整し、各民族グループと宗教・社会グループの間に存在していた厳しい対立を緩和していった。

■「調和ある多民族国家」を形成したシンガポールの知恵とは

シンガポールで形成された統治モデルは「多元的共融」と表現することができる。また、シンガポールは「エリート支配の国」でもある。政府と民族のエリートが、あらゆる民族の人々が「シンガポール国家」の枠組みの中で一心同体となって進んでいけるよう、積極的に努力している。

複数の民族集団が存在する国の場合、各民族集団と国家には、共生しながらも内在的かつ構造的な緊張関係が発生する。国家は、人口が最も多くを占める民族、あるいは最も力を持つ民族を国家アイデンティティーの柱に据えて同化政策をとるかもしれない。そうではなく、公権力が主導して、すべての民族集団に受け入れられる新たな上位アイデンティティーを改めて構築することも可能だ。どのような国を形成するかで、統治の知恵が試されることになる。

シンガポールは独立後、ソフトな全体的政策を通じて民族集団の調和の実現を牽引(けんいん)し、個別のハードな制度に基づいて多元的な共融の統治モデルを形成した。ソフトな全体的政策とは言語、教育、宗教、雇用、人材など多くの分野で多元的で平等な民族政策を確立したことを指す。

しかし現実に、各民族集団の発展の不均衡は依然として存在する。それぞれの民族集団の関係も、理想的とは言えない。これでは、国家としての統一意識がやや脆弱(ぜいじゃく)になってしまう。そのため、シンガポール政府はハードな制度保障を通じて、より強固な統治モデルを築いてきた。例えば、人口が少ない民族の政治参加比率を確保するための選挙区制度や、政府が建設する集合住宅で、入居者の民族比率を決めるなどだ。同じ集合住宅にさまざまな民族の世帯が混住していれば、「異なる民族との共存」は当たり前の風景になっていく。シンガポールの一連の制度設計は、正しい方向に進んで来たと言える。

■失敗もあったが次のステップのための礎にした

シンガポールの人口の74%は中国系住民、いわゆる華人だ。シンガポール政府にとって華人の扱いも、実にデリケートな問題だった。華人以外の民族に、「政府は華人を優遇している」と思われてはならない。かといって、華人が「逆差別を受けている」といった思いを強めてもならない。

シンガポール政府の華人関連政策の典型的として、儒教の扱いがある。シンガポール政府はそれまでの文化政策や国家価値体系の確立に欠落があったと反省し、1970年代から80年代にかけて儒教の復興に取り組んだ。西洋の価値観を偏重するのではなく、アジア的な価値観を確保してこそ、次の時代に向けての発展のチャンスを得られるとも考えた。

政府は、儒教を強調しすぎたのでは、他の民族の反発を招くことは理解していた。政府は儒教について、特定の民族だけに通用する価値観ではなく、キリスト教やイスラム教のように、人類に共通する価値体系の一部であると強調した。

シンガポールでは、儒教倫理を選択科目として学校教育に導入しされた。政府は、儒家文化の真髄が国家としての価値体系に組みこまれ、民族集団の境界を越えて、各民族集団が受け入れられる共通価値の一部となることを願った。

しかし儒教倫理は結局、すべての民族集団の「価値の遺伝子」に完全に溶け込むことはできなかった。政府はそのため、各民族集団の文化や宗教及び歴史伝統と規範の共通属性を深く掘り下げて改めて「アジアの価値観」を構築しなおした。そして1991年に「共通価値観」白書を発表した。

要するに、儒教という価値体系はシンガポールにおいて、「共通価値観」体系の形成と構築のための一つのたたき台にしかならなかった。しかし一方で、その歴史的使命を完成した後に新たな価値観の礎石の一つになったことも事実だ。

シンガポールの統治については、儒教のように紆余曲折が発生したことはあるが、全体的には非常に効果的だったと言える。その特徴の筆頭に挙げるべきは、政府が国益の獲得を最優先して、強力な指導力を発揮し続けたことだ。

いわゆる多民族国家にとって、シンガポールの成功経験は多くの有益なヒントを示してくれる。(構成 / 如月隼人

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