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隠元禅師はなぜ日本の皇室から異例の厚遇を受けているのか―中国人高僧が解説

中国新聞社    2022年5月29日(日) 8時0分

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17世紀半ばに日本に渡った隠元禅師は、今なお日本の皇室から異例の厚遇を受けている。写真は隠元禅師が住持を務めた福建省にある黄檗山万福寺。

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隠元禅師は17世紀中盤に中国福建省から日本に渡った高僧だ。中国のしっかりとした禅の流儀を伝えただけでなく、「インゲン豆」で知られているように多くの文化を日本にもたらした。隠元禅師は入滅後にも日本の皇室から定期的に「諡号(しごう、おくりな)」を与えられるなど、異例の扱いを受けている。隠元禅師は中国臨済宗の第32代の責任者だった。現在の第47代の責任者が定明禅師だ。定明禅師はこのほど中国メディアの中国新聞社の取材に応じ、隠元禅師のさまざまな事績を紹介した。以下は定明禅師の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

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■日本からの熱心な要請を繰り返し受け渡海を決意

隠元禅師(1592-1673年)は福建省・福清にある黄檗山万福寺で得度を受け修行した。後には延べ十数年に渡り、万福寺の住持を務めている。

万福寺が建立されたのは唐代の789年だった。万福寺はそれ以来、多くの名僧を輩出した。元代(1279-1368年)には衰えたが明代(1368-1644年)から清代(1644-1912年)にかけて活気を取り戻した。隠元禅師は万福寺の活性化に大いに貢献した。

隠元禅師の名声は日本にも伝わった。長崎の僧侶や信者は徳川幕府の許可を得た上で、隠元禅師に日本に来てほしいと書簡を送った。隠元禅師は4回目の書簡を受け、日本に渡ることを決めた。弟子や在家の人も加わったので、総勢は30人余りだった。厦門(アモイ)を出航して長崎に到着したのは1654年だった。

1654年と言えば、明朝が滅亡して10年後だ。しかし明代から続く海上勢力を率いた鄭成功は新興王朝の清に頑強に抵抗していた。隠元一行を日本に送り届けたのは、鄭成功が仕立てた船だった。ちなみに、鄭成功は父親の鄭芝竜と日本人女性の田川マツの間に出来た子で、出生の地は現在の長崎県平戸市だ。

■禅宗だけでなく多くの分野で日本文化の発展に貢献

日本に渡って仏法を広めた中国人僧侶として、唐代の鑑真和上(688-763年)と隠元禅師は、最も重要な二人だったと言ってよい。この二人には、仏法だけでなく当時の最先端の中国の文化を総合的に日本に伝え、日本文化に大きな影響を与えた点で共通している。

隠元禅師は長崎の興福寺や崇福寺、摂州普門寺などの住持を歴任した。徳川幕府は隠元禅師に日本に留まるよう強く慰留し、京都に新たに寺院を建立した。この寺院は、隠元禅師ゆかりの「黄檗山万福寺」の名がつけられた。

この「黄檗山万福寺」は、中国の寺院の様式で建設された。内装も中国式で、僧侶の生活や読経のやり方も中国式を踏襲した。日本のある詩人は、京都の万福寺に来るとまるで中国にいるようで、山門の外に出てようやく、ここは日本だったと思い出すと感想を述べている。

隠元禅師は自らが伝えた教えを、臨済宗として最も正統的なものと考えていたが、日本に臨済宗が初めて伝わったのはさらに400年余り前で、隠元禅師の流儀とは違いが生じていた。そのため、日本では隠元禅師の宗派は黄檗宗と呼ばれるようになった。いずれにせよ、隠元禅師は日本における禅宗の中興の祖として敬われた。

隠元禅師の後も、中国臨済宗の禅師15人が日本に渡った。日本では約100年間の間に黄檗宗の寺院1500以上が建立された。うち500近くの寺院が現存している。

隠元禅師は中国の優れた文化を日本に伝えた点でも重要だ。隠元禅師と弟子の木庵と即非は能筆家であり、日本では「黄檗三筆」と呼ばれた。彼らの書風は江戸時代の日本書道界に大きな影響を与えた。

隠元禅師は、中国の「菜豆(ツァイドウ)」を日本に伝えたことでも知られる。日本ではこの豆が「インゲン豆」と呼ばれるようになった。隠元禅師らが伝えた「隠元麻腐」などを使う日本人が初めて知った調理体系は「普茶料理」と呼ばれ、今に伝えられている。隠元禅師らの行いは、まさに模範的な日中の文化交流だった。

■日本の皇室も異例の扱い、改めて感じる交流の尊さ

隠元禅師は1673年に入滅したが、その前日に後水尾法皇から「大光普照国師」の諡号を賜わった。日本の皇室はその後、約50年ごとに隠元禅師に新たな諡号を授けており、すでに7回も重なった。最近では今年(2022年)2月に、今上天皇から厳統大師(げんとうたいし)の諡号を授けられた。

隠元禅師の弟子や孫弟子で、日本の皇室から諡号を授けられた僧侶もいる。しかしそれでも、外国人僧侶が皇室から諡号を授けられることは非常に珍しい。7回も授けられた隠元禅師は特例中の特例だ。このことは、隠元禅師が両国の文化交流に果たした歴史的な貢献が反映されていると考える。

福建省の黄檗山で成立した仏教を中心とする一連の文化は黄檗文化とも呼ばれる。日本の著名な禅宗研究者である柳田聖山(1922-2006年)は、「近世日本の社会発展は、あらゆる面から見て黄檗文化の影響を抜きにしては語れない」と表明している。

広義の黄檗文化とは、万福寺が唐代中期に建立されてから多くの高僧や文人が育み受け継いできた文化全体を指す。その中核は禅宗文化であるが、儒学や海のシルクロードの文化とも融合した豊富な内容を持つ。狭義の黄檗文化とは、隠元禅師をはじめとする多くの中国人僧侶や華僑が日本に渡り、仏教だけでなく、当時の中国文化や科学技術を伝えたことで、日本で発展・形成された文化だ。

日本で定着したこの黄檗文化は、両国の文化交流に大きく貢献してきた。両国の仏教界は国交が正常化した1972年以来、相互訪問や交流を繰り返してきた。国際文化フォーラムも開催されてきた。新型コロナウイルス感染症が発生すると、日中両国は相互に相手国に対して感染症対策物資を寄贈した。これらの動きも、鑑真和上や隠元禅師から続く、長い交流の延長線上にある。

文明とは交流してこそ、生命力をみなぎらせることができるものだ。私は福清の黄檗山万福寺の方丈(寺の責任者)として、「黄檗学」の創設を提唱している。黄檗文化を研究し、解釈し、伝承することで、両国が文化面で相互参照し、人々の心を通わせるために、より多くの模索をしたい。また、福建省は「一帯一路」構想では、21世紀海上シルクロードの中核地区だ。私はその建設に尽力して、文化交流をさらに促進し、世界の文明交流のモデルを創出して発展させていく道を探っていく。(構成 / 如月隼人

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