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1400年前の驚異のアーチ式架橋技術、その後の日本にも大きな影響―中国人専門家が解説

中国新聞社    2022年5月21日(土) 22時30分

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河北省石家荘市には、今から約1400年前に架けられた「趙州橋」と呼ばれる石造アーチ橋がある(写真)。驚いたことに、1984年までは現役の橋として使われていたという。

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河北省石家荘市には、今から約1400年前に架けられた「趙州橋」と呼ばれる石造アーチ橋がある。驚いたことに、1984年までは現役の橋として使われていたという。「趙州橋」にはどのような技術や思想が込めらたのか。「趙州橋」はまた、日本の架橋にも大きな影響を及ぼしたという。人文学を専門とし、さまざまな研究機関や大学などで活躍する梁勇教授はこのほど、中国メディアの中国深部者の取材に応じて、「趙州橋」についてさまざまな説明をした。以下は梁教授/氏/院長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

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■西洋で同様の構造の橋が出現するのは、1000年以上も後だった

趙州橋は河北省石家荘市趙県にある洨河に架けられた石造アーチ橋だ。地元では一般に大石橋と呼ばれている。宋代の皇帝が与えた安済橋という名もある。構造の最大の特徴は、大きなアーチの上に小さなアーチを重ねていることだ。趙州橋が造られたのは隋代の605年だが、欧州に同じ構造の橋が出現したのは19世紀になってからだった。

趙州橋の橋面には、通行する車輪や車を引く動物の足の位置の目印がある。車と歩行者を分離して通行させると同時に、車両が橋の左右の端を通行すると、大きな重量がかかって橋に危険を及ぼす可能性があると考えたと思われる。

趙州橋が世界に知られるきっかけをつくったのが建築史の専門家だった梁思成先生(1901-1972年)だ。梁先生は1933年に趙州橋を詳しく調査して、その結果をまとめた論文を米国に送った。

趙州橋の全長は60.4mメートルで28個の石塊で大きなアーチが構成されている。アーチ部分の水平の長さは37.02メートルで、高さはわずか7.25メートルだ。梁先生は、柱と梁という垂直と水平の構造が主流だった中国の建築で、複雑なアーチ構造が1300年以上前に出現したことを「驚くべきこと」と表現した。

趙州橋は洛陽の都から北上する、重要な街道に架けられた。隋の隋帝が高句麗を攻めた際にも、大量の軍需物資を運ぶ車列はすべてこの橋を通過した。

■自然に逆らわずに丈夫な橋を作った技術と建築観

大きなアーチと小さなアーチが組み合わさることで、趙州橋の見事な美観が出現した。もちろん複合的なアーチ構造には実際的な意図があった。まず、小さなアーチを設けることで、その部分に石材を充填した場合に比べて重量が700トン軽減された。このことは、橋の土台や地盤が受ける力が減少することを意味する。

そして、小さなアーチは洪水の発生時にも橋を壊れにくくする。橋が完全に水没するような大増水が発生した場合、水は小さなアーチ部分の空間も通過できる。小さなアーチは橋が水没した際に水を通すことができる面積を約16%増やしている。つまり水による強い圧力を減じることができる。

人や車が通過する際には、橋の中央部分までは上り坂で、そこから下り坂になる。小さなアーチを設けたことで、この勾配が緩やかになった。人も車を引く家畜も、力を節約することができる。

この趙州橋は、1984年までは「実用橋」として使われ続けていた。1000年以上も利用された大きな理由は、やはり丈夫だったということだ。。1950年代に趙州橋の強度を試算したところ、重量8トンまでは耐えられると算出された。洪水に強いことも確認済みだ。1996年8月に、この地域の複数の河川で、50年に1度の大洪水が発生した。趙州橋は無事だった。

趙州橋が1000年以上も倒壊しなかったもう一つの重要な理由は地盤だ。趙州橋の自重は2800トンだが、橋の土台は5層の石の板を積み上げて高さ1.55メートルの台を造っただけで、特に固められてはいない。自然の砂利の上に直接建てられている。

しかしその砂利の下には粗い砂、細かい石、粗い石、細砂、粘土の層がある。科学的に計測してみたところ、橋の下の地層は1平方センチ当たり4.5-6.6キロの力に耐えられることが分かった。趙州橋の地上への圧力は1平方センチ当たり5-6キロで、橋が建てられた地盤は橋を十分に支えられることが分かった。実際に、橋の土台はわずか5センチしか沈下していなことも分かった。

趙州橋と地盤の関係には、中国の古人の建築観が反映されている。人為的に地盤を固めようとするのではなく、自然との調和を重視し、自然が与えてくれた条件に合致するような建築方法を選んだのだ。これは中国の古代建築が保ち続けた中心的な思想だ。

■中国人僧侶が日本に伝えた石橋アーチ橋の建設技術

日本で最初の石橋は1634年に長崎に建てられた眼鏡橋だ。この橋は明代末期の1632年に日本に渡った中国人僧侶の黙子如定(もくすにょじょう、1597-1657年)が設計して建てられたと伝えられている。現在では黙子如定の像が橋のたもとに立っている。黙子如定は、当時の中国のさまざまな進んだ技術を日本に伝えたとされる。日本ではその後、多くの石橋が建設されることになった。

長崎が1950年代に大水害に見舞われた際に、眼鏡橋付近の現代的な鉄筋コンクリート橋は全壊したが、眼鏡橋は無事だった。

趙州橋に端を発する中国のアーチ橋建設の技術は、アジアのさまざまな地に伝わった。各地の人々は、自然と調和的な中国の建設技術に驚き、またその技術を進んで取り入れた。その意味で、中国のアーチ橋は、中国と海外の国際的な文化交流を促進し、世界各国との友情を増進したと言える。(構成 / 如月隼人

※本記事はニュース提供社の記事であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。すべてのコンテンツの著作権は、ニュース提供社に帰属します。

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