文豪森鷗外の西洋との出会いと別れ=『舞姫』エリスの実像を求めて―「東洋」と「西洋」が融合

アジアの窓    2022年4月24日(日) 9時0分

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鷗外と思しき青年太田豊太郎はドイツベルリンに赴任を命ぜられるが、その地で踊り子エリスと知り合いになり、やがてともに暮らす間柄となる。

近代国家建設を目指す明治新政府は多くの官費留学生を欧米に派遣したが、医学、語学に優れていた23歳の青年森林太郎(森鷗外の本名)は、1884年に陸軍省より衛生学研修のためドイツ留学を命ぜられた。鷗外がこの若くしてドイツに派遣された自己の体験を基に書き上げたのが短編小説『舞姫』(1890年、「国民之友」に発表)である。そのストーリーは、鷗外と思しき青年太田豊太郎はドイツベルリンに赴任を命ぜられるが、その地で踊り子エリスと知り合いになり、やがてともに暮らす間柄となる。

◆恋人エリスとの悲しい別れ

これは異国の女性とのつかの間の幸せの時間であったが、友人相沢の仲介により、ベルリンに来ていた日本の天方大臣に見込まれ、故国日本へ帰ることを勧められる。これは豊太郎にとって出世の道でもあったためエリスとの別離に悩み苦しんだものの、身重の恋人を置いて帰国の道を選ぶ。そして豊太郎の帰国を知ったエリスは取り乱しついには精神に異常をきたすほどになってしまった、という内容である。

後に『舞姫』を発表するや、この主人公豊太郎の「個人」より「国家」を優先させた所業などについて、石橋忍月らの評論家から批判の声があがり、それに対し鷗外が反論をするといういわゆる「舞姫論争」が起きている。

◆鷗外を追って来日したドイツ人女性とは?

はたして実際の鷗外と小説の踊り子エリスとの関係はどうであったのか。鷗外がドイツから日本に帰国したのは1888年9月8日であるが、実はその4日後の12日に一人のドイツ人女性が横浜港に降り立ったのだ。その女性の名は「Miss Elise Wiegert(ミス・エリーゼ・ヴィーゲルト)」(1981年、二人の研究者が明治時代に横浜で発行されていた英字新聞「ジャパン・ウィークリー・メイル」紙の「降船名簿」から名前を発見)。『舞姫』のモデルと思われる女性である。

先に帰国していた鷗外は築地精養軒に滞在するこのドイツ人女性と結婚の意思があることを母・峰に伝えるが、鷗外の将来を懸念する家族からの強い反対にあった。そしてひと月後、妹婿や弟篤次郎の説得によりこの女性は故国ドイツへと帰ることになってしまう。この鷗外を追って来日したドイツ人女性の存在は長く隠されていたが、後年、家族が手記などを発表したため、小説のモデルのドイツ人女性が実際に存在することが明らかとなってしまった。

◆『舞姫』モデルついに発見!

では、ドイツから鷗外を追ってきたドイツ人女性はどのような人物だったのだろうか。これに応えるべく多くの研究者が実際の「エリス」を探し求めてきた。例えば、小説通りの「踊り子」説、あるいは鷗外の妹・小金井喜美子の書よる「路頭の花」説、歳上の人妻説、十五、六歳の少女説など諸説があった。ところが近年ベルリン在住のジャーナリスト六草いちか氏は、ドイツ教会公文書というこれまでの「エリス調査」にないところから、ついにその人物を特定した。(『鷗外の恋―舞姫エリスの真実』2011年、講談社刊)。

その女性の名は、「エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト」。1866年シュチェチン(ポーランド)生まれで、日本に来たときは21歳であった。帰国後は帽子の仕立てをしており、結婚し出産もしていたという。これらは『舞姫』にある父親は仕立物師、母親はステツチン(ポーランド)の生まれ、という記述にも合致していた。また日本に来たドイツ女性は、帽子などを作る手芸の好きな女性という、鷗外の妹・小金井喜美子の証言ともよく合っている。六草氏の詳細な調査により、どうやら鷗外の「永遠の恋人」(長男・森於菟の証言)であり、「生涯忘れることのできないほど深く愛し、鷗外は死期の迫るまでこの恋人の写真や手紙を持っていた」(次女・小堀杏奴の証言)という「エリス・ワイゲルト」のモデルの女性の実像がどうやら確定したのである。(森鷗外記念館館長・山崎一頴氏もこの六草説を支持)

◆短編「普請中」に描かれた邂逅と別れ

鷗外の作品には『舞姫』の後日譚ともいえる『普請中』(1910年6月)という短編がある。これは渡辺という官吏と、建築普請中の精養軒ホテルで、ウラジオストックからアメリカへの旅の途中、日本に立ち寄った外国人女性との束の間の邂逅と別れを描いたものである。女性は「ブリュネットの女の、褐色の、大きい目である。この目は昔度々見たことのある目である。」と描かれる。おそらく官吏は鷗外を、外国人女性は『舞姫』のエリスを模したものであろう。

またこの短編は、男女の姿に託して西洋と近代化途上の「普請中」の日本との関係が描かれていると思える。この小説の最後に、別離の様がこう書かれている。「まだ八時半頃であった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエル(注・ベール)に深く面を包んだ女をのせた、一輌の寂しい車が芝の方へ駆けて行った。」と。

はたして森鷗外は『舞姫』に自己の思想の何を仮託したのであろうか。それは日本人豊太郎と西洋人エリスの出会いと別れに、明治近代における西洋と東洋・日本は真に理解しあうことが可能であったかという命題であっただろう。日本文学研究者のドナルド・キーン氏は、もう一人の文豪夏目漱石は「東洋」と「西洋」を自己の中で和合できずに苦悩したが、鷗外は「東洋」も「西洋」も信じながらもこの二つは鷗外の内部ではせめぎあうこともなく、二者択一にならなかった、と言う(『日本文学史 近世篇三』中公文庫)。そして哲学者でもある鷗外はこのような自己の心的態度を、それは「傍観者」であり、レジニアション(諦念)であると語っている。

参照文献―『阿部一族・舞姫』(新潮文庫)、森鷗外全集2『普請中・青年』(筑摩書房)、六草いちか『鷗外の恋―舞姫エリスの真実』(講談社)、ドナルド・キーン著 徳岡孝夫訳『日本文学史 近世篇三』(中公文庫)など。

■筆者プロフィール:杉浦幸俊「アジアの窓」編集委員

時事通信出版局 編集次長、営業部長を歴任。成城大学大学院で「比較文化」専攻。経済誌『産業新潮』に「日本文化点描」を連載中。

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