パンドラの箱の中には「希望の光」も入っていたー11年後の「3月11日」に思う

CRI online    2022年3月12日(土) 7時40分

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11年前の3月11日、東日本は大地震に見舞われた。本震は激烈で、余震も繰り返し発生した。人々は自然災害の恐ろしさを思い知らされた。

11年前の3月11日、東日本は大地震に見舞われた。本震は激烈で、余震も繰り返し発生した。人々は自然災害の恐ろしさを思い知らされた。福島東電第一原発からの放射性物質漏れは日に日に激しくなり、人々は恐れおののいた。

私は当時、特派員として東京にいた。私と同僚はそれから1カ月以上、福島や宮城など各地を取材した。被災した地元の人々と共にした時間は忘れることができない。彼らは避難の路上で、収容場所で、崩れた塀のそばで、廃墟となった施設の前で、憂鬱(ゆううつ)な様子や無力感、緊張、あるいは達観した様子を見せていた。その姿は今も私の脳裏に刻まれている。

一人の中国人として、私が最も感動したのは、当時の中国首相が原発事故が発生してわずか2カ月ほどの後に福島にやってきて、被災した住民を慰問したことだ。放射性汚染という「風評被害」が発生していたトマトを賞味することまでした。私の記憶に特に残っているのは、当時の日本では原油備蓄量が緊迫した際に、中国政府が日本政府の求めに応じて直ちに原油2万トンを提供したことだ。当時の経緯を知る人だけが、中国首相の動きと原油供給が、日本にとっていかに貴重だったかを理解しているだろう。この状況は、2008年の中国の四川大地震の際、現地で日本の救助隊が懸命に救助にあたったシーンを思い出させるものだった。日本の救助隊は遺体の前で黙とうして、犠牲者を救えなかったことを嘆いた。その光景を見た瞬間、中国人全員が涙を流した。

残念なことに、もともとは互いに仲良く、助け合っていた調和のとれた関係は、1年後の日本政府のいわゆる「釣魚島国有化」の行動で壊れてしまった。中日関係はそれ以来、なかなか平穏な状態にならない。双方の食い違いは協力より大きくなり、すき間の方が友好善隣より大きくなった。仲間を傷めつけ、邪悪な心を秘める者が大手を振ってまかりとおるような状態になった。

2020年の初頭には、新型コロナウイルス感染症の突然の大流行が発生した。すると両国国民の冷え切っていた心が、再び熱くなった。まずは日本国民が中国での感染症流行を受けて暖かい心を示し、苦境にある中国に支援の手を差し伸べた。自発的に中国に義援金を贈り、感染症対策のための各種物資を送った。中国で必要な物資の供給が回復すると、「いただいた桃をスモモによってお返しする」といった現象が発生した。日本から届けられた量よりもはるかに多くの医療用物資が「お返し」として日本に次々に届けられた。両国国民は「日月同天」(離れていても天にある同じ太陽や月を眺めているように心はつながっている)の気持ちを行動に反映させた。そして互いに見守り助け合ったことで、多くの美談が書き記されることになった。人々は、両国関係が転換する夜明けの光を見ることになった。

今年は中日国交正常化50周年だ。道理からすれば、中日両国は早い時期から、各種の祝賀活動の準備作業をするはずだ。しかし現在のところ、祝賀活動の兆しは見出し難い。感染症の状況が深刻であることが、ある程度影響しているのかもしれない。しかし、現在の中日関係に調和と友好の雰囲気が欠落していることは、否定できない。日中両国の前途は紆余曲折しており、平坦な道ではない。しかし、両国は大きな災難に見舞われるたびに、相手を思いやる真心を示し、互いに助け合う光景を出現させてきた。大きな災害に突然見舞われた状況は、「パンドラの箱」が開けられてしまった状況にも似ている。人々は打ちのめされた。しかし中日両国、そして両国国民は必ず、相手を思いやり助けると言う「希望の光」を示してきた。やはり、これからの日中関係の発展に期待せずにはいられないのだ。(CRI日本語部論説員)

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