【東西文明比較互鑑】中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入(1)五胡侵入

潘 岳    2022年1月2日(日) 15時50分

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紀元2世紀の石棺のレリーフ。ローマ兵と異民族の戦争が記録されている。(視覚中国)

西暦300年から600年、中国とローマは似たような歴史的状況に直面していた。どちらも中央政権が衰退し、周辺エスニック集団の大規模な襲来に遭っていたのだ。

中国では、匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の五胡が次々と南下し、幾多の政権を建てた。ローマでは、西ゴート、東ゴート、ヴァンダル、ブルグンド、フランク、ランゴバルドなどのゲルマン部族が潮の如く領内に押し寄せ、それぞれが「蛮族の王国」(barbarian kingdoms)を建てた。

しかし、似たような軌跡をたどった双方の歴史はまったく異なる結果を生んだ。

中国の場合、五胡十六国のなかで最初に氐族の前秦が、後に鮮卑拓跋部の北魏が華北全域を統一、度重なる分裂と抗争はあったが最後にはやはり内的再編・統合を実現し、それまで正統を代表していた南朝とも融合、秦漢の中央集権大規模国家体制を引き継ぎ、胡漢融合の大統一王朝・隋唐の礎を築いたのである。

一方、いくつかの比較的強大な蛮族の王国に数百年間制覇された欧州は、フランクのように一つの王国が西欧をおおむね統一したこともあり、また、西ローマ帝国の衣鉢を継ぐ見込みもそこには十分あったが、結局は内在する分割統治の論理のせいで個々の封建国家へと分裂していった。まがりなりにも「統一」が保たれていたとしたら、それはすべて「キリスト教会」の人心統合力のおかげである。

この歴史の分岐は、中国と西洋の歴史的歩みの違いを具現化することになった。その違いはエスニック概念から政治制度にまでおよぶ。なかでも文明理論の違いが一番のカギとなる。

南進の戦い

中国とローマの運命は、西暦89年の燕然山〔現モンゴルのハンガイ山脈。前漢時代より中国と匈奴の戦争を象徴する地〕の役を機に大きく変わる。

この戦いを経て北匈奴は欧州へと西進し、後にゲルマン諸部族がローマ国境内に侵入する重要な推進力になった(1)。一方、南匈奴は中原に南下し、五胡侵入の先駆けになる。

2017年、中国・モンゴル両国の考古学者が「燕然山の銘」を発見した。匈奴に完勝した漢の威徳を班固が作文し石に刻したものである。この石碑といえば「明犯強漢者、雖遠必誅〔我が漢朝を犯す者は、遠きにありても必ず誅せん〕」と歓呼するのが漢人としての意識を持っている人の常である。しかし、南匈奴の単于が最初に北匈奴の内乱を察知し、自ら漢王朝に出兵を進言したというのが歴史の真実である(2)。竇憲率いる4万6000の騎兵のうち3万は南匈奴人、残り1万6000も半分は羌族だった(3)。漢王朝が中原に南下する遊牧エスニック集団を率い、共同で北匈奴を西に追いやったといえる。

これは後世もたびたび重視されてきた歴史の一幕である。世界の突厥学者が文化遺産の嚆矢に挙げる「キョル・テギン〔闕特勤〕石碑」の突厥碑文には、突厥可汗の悲哀と怨恨が読み取れる。「ウイグルはなぜ唐と手を組んで自分を攻めようとするのか。草原遊牧民はなぜいつも中原に移って暮らそうとするのか」(4)

これは遊牧社会内の不協和音だろうか。そうではない。地理・気候でいえば、草原に寒波が到来するたびに北方の遊牧民は南に移動する。資源の賦存量でいえば、草原地域が養える人口は農耕地域のわずか10分の1、生きるために食糧、茶葉、絹・麻織物を中原から得ることや盛んに交易をおこなうことは遊牧民にとって必要不可欠だった。周辺エスニック集団に対する中原の強大な吸引力の一つが先進的な農業と手工業である(5)。最北のエスニック集団が西へと活路を求めたのと違い、漠南〔蒙古高原の砂漠地帯以南〕のエスニック集団はむしろ中原との融合を求めた。華北の経済・交通網を中原と共有する彼らは、飢饉の年に食糧を得るのも、低コストの交易をおこなうのもいっそう容易だった。社会経済の共同体が幾度も形成された所以である。こうして1500年の時を経るうちに、地理から経済まで、民俗から言語まで、そして文化から制度まで、最終的には東北アジア全域を包括する1個の政治共同体が形成されたのである。

燕然山の役以降、南匈奴は漢族の地に入り込み、その北部辺境で遊牧生活を営んだ。漢王朝の懐柔策により税を免れたが、郡県制の統治は受け入れなければならなかった(6)。今日、寧夏、青海、内モンゴル、陝西、山西の各省・自治区で南匈奴人の墓が発見されているが、漢式のものもあれば、草原の「頭蹄葬〔牛、馬、羊などの頭や蹄を副葬〕」もある。さらに青海省では諸侯に封ぜられた匈奴首領の駝鈕銅印「漢匈奴帰義親漢長」が出土している(7)。胡漢の文化が融合していたことがわかる。南匈奴の南下と相前後して内陸部に移動したものに西北の氐と羌、東北の鮮卑、漠北の羯がある。三国時代後半は中原人口の急減により、魏も晋も絶えず五胡を「招撫」した。100年間で内陸に移動した五胡の数は数百万人、内訳は匈奴が70万、羌が80万、氐が100万、鮮卑が250万である(8)。西晋の「八王の乱」後、華北総人口1500万人のうち漢族はわずか3分の1を占めていたにすぎない。「漢化」はすなわち「同化」であり、「巨大エスニック集団」が人口の絶対的優位に依拠しつつ「少数エスニック集団」の生活様式を変えたという誤った理解をする人もいる(9)。しかし、歴史の真実は異なる。五胡は軍事的に優勢だっただけではなく、人口でも優勢だった(10)。慣れ親しんだ習慣に従って「中原で放牧する」ことも、漢族を「胡化」することもまったく可能だった。しかし、彼らは自ら進んで「漢化の道」を選んだのである。


三国両晋南北朝時代の絵が描かれたレンガ。(視覚中国)

漢化の道

漢化の道は南匈奴に始まる。

西晋を滅ぼし五胡最初の王朝を建てたのは南匈奴の劉淵である。彼は匈奴の南単于である羌渠の曽孫で、漢と匈奴の姻戚関係政策により劉氏に改姓した。貴族の子弟として晋朝宮廷に遊学した劉淵は、『詩経』『尚書』を読み、『史記』『漢書』を学び、『春秋左氏伝』と『孫呉兵法』をとくに好んだという。劉淵は山西省南部を割拠して帝位についたにもかかわらず、北方の先祖伝来の事業を再興しようとはせず、「漢」を国号として天下を統一することに固執した。そのため自らを劉邦〔漢の高祖〕、劉秀〔漢の光武帝〕、劉備の後継者と名乗り、「漢氏の甥」「亡き兄の後を弟が継ぐ」〔劉淵の先祖・冒頓が漢王朝と兄弟の契りを結び、皇族を妻にしていた〕ことの合法性を証明するために、「どうしようもない人物」といわれた劉禅〔劉備の子、蜀漢2代皇帝〕の位牌を祀ることまでした。

しかし、劉淵の権力は長続きせず、羯の石勒によって滅ぼされた。「鼻が高く髭が濃い」羯族はサカ族に属し、かつては「別部」「雑胡」として匈奴に従属していた。遊牧貴族として宮廷にまぎれ込んだ劉淵と異なり、石勒は農奴出身、社会の底辺を彷徨っていた。しかし、石勒もまた漢の文化を愛好した。字が読めないのに「高尚な文学趣味」をもち、好んで『漢書』を人に読んでもらったという。息子の石弘は父の差配ですっかり読書人となった。しかし、石勒も志半ばで斃れ、華北統一の大事業は残忍な子孫によって途絶させられた。後趙〔石勒の建てた国名〕の廃墟からは、鮮卑慕容部の前燕と氐族の前秦が生まれている。

五胡政権のなかで最初に華北を統一したのは前秦の苻堅である。前秦は秦の関中〔現在の陝西省西安市を中心とする一帯〕を拠点に発展し、一時その領土は「東極滄海、西併亀茲、南包襄陽、北尽沙漠〔東の果ては海、西は亀茲(クチャ)を併合、南は襄陽を含み、北は砂漠に至る〕」といわれた。しかし、晋朝打倒を急いだあまりわずか数年で滅亡した。前秦の「屍」は、羌姚部の後秦、鮮卑慕容部の後燕、匈奴赫連部の大夏へと分裂していった。

入り乱れた争いのなか、鮮卑拓跋部がモンゴル草原から一挙に打って出て、群雄を打ち破り、国号を魏〔北魏〕と定めた。皇帝3代にわたって国家経営に精励し、100年以上混乱を極めた華北をついに統一した。後に北魏は北周と北斉に分裂するが、再び北周によって統一され、しかもこれが全国統一王朝・隋唐の礎になったのである。

前秦と北魏―この二つは中国全土の統一に最も近づいた政権であり、漢化のレベルが最も高く、漢化のスタンスを最も堅持した政権である。


北魏の彩色された儀仗隊の陶俑。(中国新聞社

苻堅は代々酒好きの氐族家庭に生まれ、日々戦争に明け暮れる豪傑だったにもかかわらず、子どもの頃から経書、史書を耽読していた。帝位に即してからは文教政策に力を入れ、自ら太学〔官吏養成の最高学府〕に赴き、官吏の卵に経書の試験をおこなっていたという。道徳上は「周孔微言〔周公と孔子の奥深い道理〕」に恥じることなく、実践上は「漢之二武〔武帝と光武帝〕」を超えるのが彼の目標だった。苻堅は西域を征服しても汗血馬〔千里を走り、ひとたび走れば血の汗を流すという名馬〕を送り返し、この名馬目当てに大宛国〔フェルガナ〕を攻めた武帝より自分の方がワンランク上であることを示そうとした。また、東晋を攻撃しながらその君臣のために朝廷ポストを用意し、彼らの邸宅を補修、「興滅継絶〔滅亡した国を復興し、絶えた家を継ぐ〕」の周政に倣おうとした。鮮卑慕容部を捕虜にしても決して殺そうとはせず、慕容暐と慕容垂を臣下にとりたてることもしている。隠れた危険は取り除くべしとあまたの人が進言しても、苻堅は「徳を以て人を従える」という範をうちたてることにこだわった(11)。果たせるかな、鮮卑の豪族たちは苻堅が淝水の戦いに敗れるやいなや反旗を翻し、後燕と西燕を建てることになる。「仁義」に対する苻堅のこだわりぶりは「不肯半渡而撃〔半ば渡らしめて撃つことを肯せず。仁義にもとる戦いを好まないこと〕」の宋・襄公だと皮肉られたこともある。

前秦の滅亡は「行き過ぎた漢化」のせいだという人もいるが、後の鮮卑拓跋部・北魏は華北を統一してからむしろ前秦以上に徹底して「漢化」を推し進めた。「為国之道、文武兼用〔国を為むるの道は文武兼用なり〕」とは道武帝・拓跋珪の言葉である。太武帝・拓跋燾は漢人士大夫を数多く重用し、河西〔黄河上流の西、甘粛省一帯〕の学者を首都に移住させ、鮮卑の子弟に儒教経典を学ばせた。「こうして多くの人々が徳を磨くことに励み、儒学が再興した」と伝えられている。孝文帝・拓跋宏の漢化政策はもっと「体制的」だった。洛陽に遷都し、西晋・東晋、南朝の官僚制度を模倣、鮮卑の家柄を定め〔姓族分定、家格を定めて任官の基準にした〕、胡姓を漢姓に、胡語を漢語に変えるよう命じた。そして、自ら率先して同族子弟を漢族と通婚させた。


明時代の陳洪綬の『宣文君授経図』:前秦の苻堅が宣文君に礼儀と音楽の伝授を請う。宣文君は前秦の経学者で中国古代史上初の女性博士である。(FOTOE)

北魏が華北を統一できたのも、そこから発展した北周と隋が中国全土を統一できたのも、すべて「漢の習俗・風習に改め、漢の伝統儀礼を実施」したからだという歴史家がいるが、必ずしもそうとは限らない。漢の風習、漢の儀礼というが、自然にそれを備えていた南朝は中国を統一することができなかった。北魏がうまくいった最も重要な要因は、「大一統」精神の政治制度改革を遂行し、秦漢の儒法国家体制を再創造したことにある。

統一の再創造

西晋崩壊後の天災、人災で、末端行政は壊滅状態だった。華北の至る所に「塢堡〔村人達が自衛のために築いた砦または防禦用の壁に囲まれた集落〕」が築かれ、人々は強力な豪族の下に集まり自衛していた。戦乱は土地の荒廃を招き、流民化する者がいる一方で、横暴な豪族がこの機に乗じて広大な土地を暴力的に占拠した。貧しい者はますます貧しくなり、富める者はますます富む状態だった。

485年、北魏は均田制改革を実施、無主の荒地をいったん国有にしてから貧民に均等に配分した。これらの土地には「露田」と「桑田」がある。「露田」は地租の対象となる田畑で、死亡したときに国に返還、そのあと国が次の世代に再分配する。一方「桑田」は桑や麻などの栽培地で、返還不要、子孫に継がせることを許した。さらに均田制には、老人や子供、障害者や寡婦に対する土地支給にも定めがあった。この制度が実施されて以降、たしかに強者は依然として強者のままだったが、弱者もまた自分の足場となる土地を得た。北魏から時代を下ること唐の中期、貞観の治・開元の治の土地制度も、その基礎はすべて均田制である。

均田制と同時におこなわれた重要な改革が三長制である。その矛先は乱世の豪族割拠だった。強力な豪族はすなわち「宗主」であり、朝廷支配は末端に届かず、「宗主」を通じて間接的に支配するしかなかった。これを「宗主督護制」という(12)。三長制はこれを廃止し、秦漢式の「編戸斉民〔戸籍を編んで民の情報を整理する〕」すなわち末端行政機構を再建するものだった(5戸を1隣、5隣を1里、5里を1党として、それぞれに隣長・里長・党長を置いた)(13)。加えて村民から郷官〔郷村の官吏〕を選抜し(14)、徴税と民政全般に責任をもたせた。

均田制を立案したのは漢族の儒者である李安世、三長制を立案したのも漢人士大夫の李沖である。均田制を通じて北魏は、充分な戸籍制度、租税制度、兵力供給源を得た。三長制を通じて封建的統治を終わらせ、末端行政機構を再建した。そして官僚制を通じて中央集権的な行政体系を復活させた。「漢衣を着る」「漢の儀礼に改める」といった形式よりもこれらのほうが「漢制〔漢の制度〕」の本質である。西晋滅亡から170年、「漢制」はなんと少数民族王朝の手で中原に蘇ったのである。まさに歴史学者の銭穆が「元来、部族的封建制度をもって立国した北魏だったが、三長制、均田制の実施に及んで、氏族封建制から郡県制統一国家へと次第に変わっていった。それにあわせて胡漢の力関係も逆転していった」(15)と言ったとおりである。わずか30年の間に、北魏の人口と兵力は南朝を凌駕した。520年、北魏の人口は西晋太康年間の倍、3500万に迫った(16)。北魏の軍隊には大量の漢族農民が加わり、「戦をするのは鮮卑、田を耕すのは漢族」という以前の住み分けを打破した。

北魏が「漢制」を引き継いだ頃、東晋と南朝のそれはむしろ形骸化に向かっていた。後漢に始まる察挙制〔郷挙里選〕は、四世三公〔四世代にわたって三公すなわち高位高官を輩出する〕の経学門閥と槃根錯節〔解体不可能なほど社会にはびこっている〕の官僚豪族を生み出し、魏晋の時代になってそれが門閥政治へと発展していった。東晋〔司馬睿〕政権の樹立は名門貴族〔特に王導、王敦ら王氏一族〕の支持に負うところが大きかったため、「王馬〔王氏と司馬氏〕、天下を共治す」という状況が出来した。東晋・南朝の時期にはさらに奇異な状況が生まれた。華北から南下してきた流民の数は1000万を超え、また、江南経済は繁栄を失うことがなかったにもかかわらず、「呉から陳までの六朝、300年の長い治世にあって、江南の人口は戸籍上ほとんど増えていない」(17)。南に流れてきたこうした人々は、名門の家柄を捨てて使用人となり、政府に登録されなかったため、朝廷は一方で人口を把握できず、他方で多くの税源を失った。門閥政治は清談を奨励し、優雅このうえない魏晋の気風と玄学〔道儒融合の思弁哲学〕を生み出した。社会の衰退と芸術のピークが同時に訪れたのである。

陳寅恪〔歴史学者〕も銭穆も、後の隋唐王朝は北朝の政治制度と南朝の礼楽文化を全体的に継承したと考える。南朝の旧套墨守に比べれば、北朝の均田制や府兵制などにみられる革新の方が「漢制」の「大一統」精神に合致していた。隋が初の全国戸籍調査(団貌)をスムーズに実施できたのも、科挙制度を創設できたのも、こうした精神のおかげである。陳寅恪は「塞外〔万里の長城以北〕の粗野だが有能な血が、文化的に退廃した中原の体に注がれた」(18)というが、注がれたのは「血」というよりもむしろ改革と革新の精神であろう。

南朝に対する北朝の勝利は、文明に対する野蛮の勝利ではなく、「大一統」精神を引き継ぎ得た者の勝利であり、硬直的で守旧的な「旧漢制」に対する、胡漢双方の要素を同時に取り入れた「新漢制」の勝利である。名門に対する態度も同様である。華北は江南より現実的な政治力を重視した。北朝は官吏の考課で実績をみたからである。経学もしかりだ。北朝は実学を重視し、南朝は玄学を重視した。儒家にしてもそうだ。北朝は中央でも末端でも大量に登用したが、南朝は末期になってようやく寒人〔低い家柄出身の士族〕を官吏、軍師に取り入れただけである。

南朝にも決してみるべきものがなかったわけではない。後に隋唐が採用した「三省六部制」の原型は南朝発祥である。また、東晋にしても南朝にしても「大一統」の理念を一度もいい加減にしたことがない。東ローマに比べればその点は強固だった。ビザンツ帝国千年の歴史で、西方統一のための出兵は事実上たった1回だった。しかし、東晋・南朝の272年間、東晋の祖逖、庾亮、桓温、謝安にはじまり宋の武帝・劉裕と文帝・劉義隆の父子、梁の武帝・蕭衍、陳の宣帝・陳頊…… 北伐は10回を超える。いずれも成功することはなかったが、誰一人として公に断念することはなかった。夏華の大地ではいかなる統治者も、「大一統」を放棄しようとした瞬間にその合法性を失うも同然だったのである。

漢化とローマ化

五胡があくまで「漢化」にこだわったのは、漢文明の神髄が長期安定的な大規模政治体の構築にあったからである。遊牧民は軍事的には優位だったとはいえ、漢文明が歴史的に培ってきた制度を吸収しなかったら、「正統」と称して憚らない南朝に勝利できなかっただろう。「漢制」は「漢族」の慣習法ではなく、一切の私心を排した理性的な制度である。異民族と漢族の区別は血筋や習俗によるのではなく、徳と制度によるものだ。漢族だからといって「漢制」の精神を継承し発揚することに消極的ならば、華夏の継承者たる資格を失う。

「漢化」は「漢族によって同化させられる」という意味ではなく、「漢制」を取り入れるという意味である。前漢初期に「漢族」は存在しない。あったのは「七国〔呉・楚・趙など七つの諸侯王国〕の人」だけである。司馬遷は『史記』を書く際、七国の区別を使って各地の人々のさまざまな性質を描いた。「漢族」が「漢王朝臣民」の自称に変化したのは漢の武帝以降である。なぜなら武帝が、秦の法家制度、魯の儒家思想、斉の黄老思想と管子の経済思想、楚の文化芸術、韓・魏の縦横刑名の学、燕・趙の軍事制度、これらをすべて一体的に融合し、「大一統」の「漢制」をつくったからである。以来、こうした制度や文明にアイデンティティをもつ人を「漢族」というようになった。政治制度をもって国家=民族という概念を構築する―「漢族」はその最も早い実践例だといえる。こうした一連の制度は秦漢に始まるが、以降は中華世界の専有物になることなく、東アジア全域の古典文明遺産になった。漢字も単なる「漢族の文字」ではなく、東アジア古典文明の重要な伝達手段である。「大一統」を成し遂げた経験と教訓はすべて漢文の法典と史書に記録されているので、それを学ばずして先業を引き継ぎ発展させることはできない。五胡が自発的に漢化したのは、決して自分たちの祖先を忘れたからでもなければ自己を卑下したからでもない。部族政治の先にある、それよりもはるかに大きなスケールの政治体を建設する壮大な志をもっていたからである。

「漢化」とよく似た概念に「ローマ化」がある。古代ローマの制度はローマ人の創造であるが、地中海文明の古典的なありようになった。ラテン語は「ローマ人の言語」ではなく、欧州古典文化の伝達手段である(19)。ゲルマン「蛮族の王国」の多くが口語としてのラテン語を放棄し、ゲルマンの各エスニック集団が部族・方言の違い故に「別々の王国」「別々の言語」へと分裂していったとき、まさにそのときからラテン語を伝達手段とするローマ文明は野蛮の大波にのまれ、カトリック教会の権力のもとに埋もれていったのである。ローマ法が復活するのはようやく12世紀になってから(20)、「人文主義」と「国家理性」(21)が再発見されるのは14世紀から15世紀にかけてのルネサンス期になってからである。しかも「再発見」の源は欧州本土にない。十字軍がコンスタンティノープルから古代ギリシャ・ローマの手稿を持ち帰らなければ、アラビア人がプラトンやアリストテレスの古典を翻訳しなければ、欧州でルネッサンスが興るのは難しかっただろうし、啓蒙運動もなかっただろう。つまり、周辺エスニック集団と「本拠地」の民が共同で後世に伝えた漢文明とは異なり、ギリシャ・ローマの古典文明は外部世界からの「逆輸入」で取り戻されたといえる。

(1)北匈奴西進後の変遷にはいまなお議論がある。ただ、北匈奴と後のフン族を直接結びつけて考える学者は多い。清末の歴史学者・洪均は『元史訳文補正』で、西洋の古い書物に出てくる「フン族」と匈奴のイメージが非常によく似ていると指摘している。18世紀、フランスの学者ド・ギーニュはハンガリー人と匈奴の共通点を発見、『フン族通史』でハンガリー人の祖先は遠方よりやってきた北匈奴だという説を提起し、ギボンも『ローマ帝国衰亡史』でこの説を採り、ドイツの著名な中国学者ヒルトも『フン族研究』でこの説に賛同している。ベルンシュテイン『ケンコール古墳群』と江上波夫「匈奴・フン同族論」もそれぞれ古墳のDNA分析、フン族活動地域から出土した漢式/匈奴式の副葬品を通して同族論に有力な支持を与えている。内田吟風「フン匈奴同族論研究小史」〔中国語訳〕『北方民族史与蒙古史訳文集』雲南人民出版社、2003年所収参照。
(2)『後漢書・南匈奴伝』に、章和2年〔88年〕南単于が次のように上奏したとある。「北虜大乱、加以飢蝗、降者前后而至」「今所新降虚渠等詣臣自言:去歳三月中発虜庭、北単于創刈南兵、又畏丁令、鮮卑、遁逃遠去、依安侯河西;……臣与諸王骨都侯及新降渠帥雑議方略、皆曰:宜及北虜分争、出兵討伐、破北成南、併為一国、令漢家長無北念」。『後漢書・南匈奴伝』中華書局、1965年、P2952。
(3)「憲与秉各将四千騎、及南匈奴左穀蠡王師子万騎、出朔方鶏鹿塞;南単于屯屠河、将万余騎、出満夷穀;度遼将軍鄧鴻及縁辺義従羌胡八千騎、与左賢王安国万騎、出稒陽塞。皆会涿邪山」。範曄撰、李賢他注『後漢書・竇憲伝』中華書局、1965年。
(4)「南方唐家世為吾敵、北方之敵、則為Baz可汗及九姓回鶻;黠戛斯、骨利干、三十姓韃靼、契丹及Tatabi、皆吾敵也」「噫、吾突厥民衆、彼悪人者将従而施其煽誘、曰:『其遠居者、彼等予以悪贈品、其居近者、予以佳物』。彼等如此誘惑之。愚人為此言所動、遂南遷与之接近、爾輩中在彼淪亡者、何可勝数」。韓儒林『突厥文闕特勤碑訳注』北平国立北平研究院総弁事処出版課、活版本、1935年。
(5)費孝通「中華民族的多元一体格局」『北京大学学報(哲学社会科学版)』1989年第4期。
(6)『晋書・四夷列伝』中華書局、1984年、P2548。
(7)1973年、青海省大通県後子河郷上孫家寨村の漢式古墳群1号墓から出土した角形の駝鈕銅印。「漢匈奴帰義親漢長」の8文字が篆書体で彫られており、後漢中央政府が匈奴首領に贈った官印とされる。「帰義」とは、漢王朝が配下の周辺エスニック集団首領に与えた称号。
(8)朱大渭「十六国北朝各少数民族融入漢族総人口数考」『朱大渭説魏晋南北朝』上海科学技術文献出版社、2009年。
(9)『Racial and Ethnic Relations』Boston, Holbrook 1970年、P117~P119。
(10)江統『徒戎論』によると、当時の関中は胡漢人口比が1対1だったが、東北地区になると胡族の人口比がさらに高くなった。
(11)「修徳則禳災。苟求諸己、何惧外患焉」。『晋書・苻堅載記』
(12)「魏初不立三長、故民多蔭附、蔭附者皆無官役、豪強征斂倍于公賦」。『魏書・食貨志』
(13)『資治通鑑』巻138。
(14)「取郷人強謹者」。『資治通鑑』巻。
(15)銭穆『国史大綱』商務印書館、1996年、P336。
(16)『魏書・地形志』総序。
(17)唐長孺『魏晋南北朝隋唐史三論』武漢大学出版社、1992年、P88。
(18)陳寅恪『金明館叢稿二編』三聯書店、2001年、P344。
(19)欧州諸王国は8世紀から9世紀にかけて各自の方言と書面語を生み出していたが、それでも中世末まで政府公用語、記録言語、教会言語はラテン語であり、ゲルマンの書面語は補助的に用いられていたにすぎない。ピーター・バーク著、李霄翔・李魯・楊豫訳『語言的文化史:近代早期欧洲的語言和共同体』北京大学出版社、2007年、P107。
(20)1135年、イタリア北部でユスティニアヌス帝『学説彙纂』の原稿が再発見されたのをきっかけに「ローマ法復興運動」が興った。
(21)マキャベリの「国家理性」(Ragione di Stato)説。マキャベリ著、藩漢典訳『君主論』商務印書館、1985年、P18。

※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入(1)五胡侵入」から転載したものです。

■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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