【東西文明比較互鑑】秦漢とローマ(2)共和政ローマの挽歌

潘 岳    2021年12月28日(火) 18時10分

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内乱時代のローマに1人の哲学者・雄弁家が誕生した。ローマの「共和政の父」キケロ。(CNS Photo)

土地、内乱、帝政

紀元前206年、ちょうど中国で楚漢が争っていたころ、ローマはカルタゴとの第2次ポエニ戦争のただ中にあった。半世紀を費やしてついにカルタゴを滅ぼしたローマは、マケドニアを解体し、地中海の覇者になった。重要なのは、この間ローマはずっと共和政を維持していたことである。

古代ギリシャの歴史家ポリュビオスは、「混合政体」すなわち王政、貴族政、民主政を融合したことがローマ成功の要因だという。対外軍事権をもつ執政官は王政を、経済大権を握る元老院は貴族政を、採決権をもつ民会は民主政をそれぞれ体現しており、この三つの力が互いにけん制しつつ均衡を保っていた、ということだ。

紀元前1世紀、この権力バランスが崩れ、「内乱の時代」に突入した(3)。そして紀元前27年(4)になってローマはついに共和政から帝政へと転換する(5)。それまで150年間内乱とは無縁だったローマ人を、一転して殺すか殺されるかの状況に追いやったものは何か。土地である。

1世紀半の海外遠征でローマの富豪は大量の奴隷と財宝を故土にもちかえり、「ラティフンディア〔奴隷制大農経営〕」を生み出し、これが自営小農民の大量没落と大土地所有の急発展を招いた。平民はしだいに貧民へと変わり、最後は「パンと見せ物」を求めてローマをさまよう無産市民にまで没落した。

君主〔執政官〕、貴族、平民のなかで最も強い力をもっていたのが貴族である。イタリアの政治思想家マキャベリの言葉を借りれば、ローマ貴族は名誉の点で平民に譲歩するのにやぶさかではなかったが、財産の点では1ミリたりとも譲歩しなかった。したがって、無産市民は最終的に軍閥に頼るしかなかった。戦争で土地を得ることができるのも、それを兵士に分配するよう元老院に強制できるのも軍閥だけだったからである。

こうして国家のために戦った市民は将軍たちの傭兵になった。政治家が支持を失った空白をついて軍閥が登場したのである。

内乱時代のローマに1人の哲学者・雄弁家が誕生した。「古代共和政の父」キケロである。

キケロは紀元前63年、ローマ初の貴族出身ではない執政官になると政界で大暴れし、彼のおかげで死んだ者、失脚した者もいれば、歴史に名を残した者もいる。カエサルの「養子」ブルトゥスはキケロを「精神上の父」とみなした。「暴君を殺害することは真の英雄的行為だ」というキケロの思想に感化されて、ブルトゥスはキケロの名を叫びながらカエサルに剣を振りかざした。

キケロはカエサルの死後、その後継者アントニウスに矛先を転じた。ただ、アントニウスはカエサルと同じ独裁の道を歩むつもりはまったくなく、むしろ元老院と共同でローマを治めたいと考えていた。にもかかわらず、キケロは共和派のリーダーとしてこれを黙殺し、軍隊の招集を共和派に指示すると同時に、オクタヴィアヌスに武装反乱をもちかけた。

このときオクタヴィアヌスは若干19歳、自身もアントニウスに取って代わりたいと思っていたので、すぐさま3000人の古参兵で私兵団を組織しローマに進軍した。このオクタヴィアヌスの反乱は、キケロの「フィリッピカ〔アントニウス弾劾演説〕」の後ろ盾もあって「共和政を防衛するもの」と位置付けられた。

こうしてオクタヴィアヌスは部隊を率い、元老院の大軍も味方につけてアントニウスを打倒、続いてキケロの協力を得て執政官に立候補した。このとき彼は喜んでキケロの露払いになるとも誓っている。

ところが、オクタヴィアヌスは執政官に当選するやいなやキケロを見捨て、一転してアントニウスとの和議に走った。アントニウス側の条件はキケロを殺すことだった。オクタヴィアヌスはなんのためらいもなく同意した。

ギリシャの作家プルタルコスはキケロの最後を次のように書き記している。「やみくもに逃げていたキケロは絶えず馬車の窓から首を出し追っ手をふりかえった。アントニウスの兵はこの首を切り落とし、いつもキケロが見識豊かな弁論をおこなっていた演壇につるした」(6)

これは、ローマ史のなかでもとりわけ人々にショックを与えずにはおかない悲劇―帝政のカーテンコールに引きずり出された共和政の挽歌である。キケロの死から11年後、オクタヴィアヌスはローマ帝国の初代皇帝になった。

ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(CNS Photo)

自由の名のもとに

巨富を擁したローマが、その富をいくらかでも貧富の格差解消にまわし、国家の分裂を防ぐことができなかったのはなぜか。歴史書はローマ貴族の贅沢きわまりない生活にその罪をなすりつけるが、これは一面的である。平民は没落しても選挙権があった。執政官の選挙は年に一度、貴族が競って大規模なフェスティバルや格闘技大会、パーティーのスポンサーになったのは、ほかでもなく平民票の獲得のためである。

貴族がいくら裕福だといっても選挙費用をまかなうには十分ではなく、選挙のために破産する者も多かった。ここで財閥の出番となる。表立って資金援助を始めた彼らは貴族ばかりでなく軍閥にも投資した。財閥の金が絶えずローマの軍団に流れると党派闘争は内乱に転化した。50年間に大きな内乱が4回勃発すると、混乱と絶望に陥ったローマ市民は最終的にオクタヴィアヌスの共和制から帝政への移行を支持するようになった。

これはローマ市民が自由を嫌ったということではない。そうではなく、自由は彼らに平等と富と安寧をもたらさなかった、つまり、言葉だけの自由は彼らの切実な関心に報いることができなかった、ということである。貧富の格差問題がそうだ。血を流して戦っても生涯土地を手にすることができなかった兵士たちの不満もそうだ。官と財の構造的癒着と腐敗もそうだ。元老院はこれらの問題に解決策を考えたこともなかった。解決を試みたのはむしろ軍閥である。例えば、オクタヴィアヌスは退役兵士に土地と現金を集中的に支給する財源を設けた。カエサルも万単位の貧民に耕作地を提供するべくローマ近郊のポンティーネ湿原干拓を計画した。コリントス運河をつくってアジアとイタリアの経済を結びつけようとしたのもカエサルである。しかし、ローマ「共和政の父」キケロはこうした工事を批判した。自由を守ることに比べれば雀の涙ほどの価値しかなく専制君主の功名心の最たるものだ、「血と汗を流せ、甘んじて奴隷になれ」と人々に迫っている証拠だと。

「自由」を乱用したのはなにも雄弁家だけではなく、軍閥もそうだった。軍閥にとっての「自由」には、政治の制約を一切受けないという意味が含まれていた。ある派閥が元老院で優勢を占めると、対抗派閥は「自由が圧迫されている」と公言し、当然のように兵を挙げて反乱を起こした。ポンペイウスはマリウス派を暴政といいなし、私兵団を招集した。カエサルは、そのポンペイウス一味が自由を迫害しているとし、ガリア軍団を率いてルビコン川を渡った。オクタヴィアヌスは反乱に勝利すると貨幣を鋳造させ、そこに自身の像とともに「ローマ国民の自由の守護者」の銘を刻んだ。自由、それは利害を異にする集団が内紛を引き起こす口実になったのである。

結局のところ、共和政がコンセンサスを得るには選挙だけでは不十分で、構造的改革を断行する政治家の自己犠牲の精神が必要なのである。

「自由」それのみで自由が守られたことはいままで一度もない。

(3)Nic Fields『The Roman Army:the Civil Wars 88-31 BC』P53。

(4)デニス・C・トゥウィチェット、マイケル・レーヴェ編、楊品泉等訳『剣橋中国秦漢史』中国社会科学出版社、1992年、P211。

(5)H・F・ヨルヴィチ、バリー・ニコラス著、薛軍訳『羅馬法研究歴史導論』商務印書館、2013年、P4。

(6)プルタルコス著、席代岳訳『希臘羅馬名人伝』(下)、吉林出版集団、2009年、P1581。

※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(2)共和政ローマの挽歌」から転載したものです。

■筆者プロフィール:潘 岳

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。
著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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