(人物伝)中国スポーツにレガシーを残すサッカー選手・容志行

CRI online    2021年7月28日(水) 11時10分

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このシリーズでは現在活躍中、あるいは中国のスポーツ界に大きな影響を残したアスリートたちにフォーカスしてお伝えします。

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このシリーズでは現在活躍中、あるいは中国のスポーツ界に大きな影響を残したアスリートたちにフォーカスしてお伝えします。

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中国ではスポーツマンシップを語る際に、「志行スタイル」という言葉があります。これはサッカー界のレジェンドである容志行さんが示したスポーツマンシップを指す表現です。

中国サッカーにレジェンドを残す

1981年、サッカーW杯のアジア・太平洋地域予選の決勝入りを決める重要な試合で、中国代表が3対0でアジアカップのチャンピオンだったクウェートを下し、中国サッカーの歴史に忘れられない一ページを書き記しました。その3対0の最初の一点を決めた選手は、試合で足を負傷したままプレーを続けた容志行さんでした。当時の中国は3年前の1978年末から「改革開放政策」に乗り出したばかりで、バレーボールやサッカーが重要な国際試合で勝利したニュースは多くの人を元気づけました。容さんもそのような時代を代表するアスリートの一人でした。

サッカー少年から中国代表へ 「戦略的反則」はしない

本籍地が広東省台山の容志行さんは、1948年に中国からインドのムンバイに向かうクルーズ船の船上で生まれました。父親は外交官で、志行さんは次男です。

1953年、容さん一家はインドから中国に戻り、広州で暮らしていました。小学校の時、路地で近所の子供たちとサッカーの試合をしていたところ、その抜きんでているパス回しが、通りかかったスポーツ学校のコーチの目に留まりました。それがきっかけで、地域のアマチュアスポーツ学校に入学すると、その後、めきめきと頭角を現わし、広州市チーム、広東省チームへと進み、途中、政治的に混乱の時期もありましたが、1971年に中国代表チームに選抜されました。チームの中では、フォワード、セカンドトップ、レフトウイングなどのポジションで、中心的役割を果たしてきました。

容さんはその後、18年あまりにわたって、中国代表として数多くの国際試合に出場し、数多くの業績を残しました。その一方で、これだけ長い選手人生の中で、一度もイエローカードやレッドカードが出されたことがないことで知られています。フィールドで、対戦選手から反則行為のキッキング、トリッピングなどの妨害を受けても、容さんはとくに気にかけることなく、一度もやり返したことはありませんでした。それについて、容さんはこう話しています。

「相手の体を倒すのではなく、ゴールにボールを入れてこそ一番の仕返しなのです」

容さんは、フェアプレーの精神を守り続け、一度も「戦略的な反則」によって点を入れようとしたことはありません。また、得点した後も驕った様子を見せたことはなく、「サッカーの神様」と称されたブラジルのペレ選手からも絶賛されたほどです。

スポーツ本来の姿を重んじる「志行スタイル」

容志行さんのスポーツマンシップを世界に知らしめたのは、1980年代初めに中東で行われた交流試合での出来事でした。

容さんは相手側の選手から取り囲まれて、固くディフェンスされていました。一度、ボールをペナルティエリアまで運び、いつでもシュートできるような体制を整えた矢先、相手側のサイドバックの二人がブロックするために左右から猛スピードで走り出し、体を激しくぶつけていこうとしました。サッカーでは小柄な身長171センチの容さんは早々とその気配を察して、素早くボールを運びながら、3メートル先へと素早く走り抜け、サンドイッチにされそうな状況からうまく逃げ切りました。その時の容さんは、ゴールからわずか10メートルの距離にまで迫り、シュートすれば点を入れられる状況でした。

しかし、前方にいる容さんの耳に、後ろからサイドバック二人が激しくぶつかり合い、地面に倒れてしまった音が聞こえてきました。

その時のことでした。容さんはすぐにシュートを止め、二人のところまで戻って様子をチェックし、その後、二人の肩を叩き、手を伸ばして二人を相次いで引き起こしました。

観客席からは鳴りやまぬ拍手と歓声が沸き起こりました。のちに、地元メディアは、「嵐のような激しい試合の中、背番号11番の中国代表が自制を保ち、競り合いから身を避けただけでなく、度重なる激しい妨害を受けたにもかかわらず、良心とモラルのラッパを鳴らした」と評しました。

「妨害を受けた選手に対して、どうしてやり返さないのか」と質問された容さんはこう話しています。

「サッカーというのは、体のぶつかりあいの中で激しく競うスポーツなのです。もしキッキングされたからといって、やり返すことばかりを考えれば、真の進歩ができなくなります。自分の場合は蹴られたら、次回はレベルアップして、蹴られないようにしなければならないと考えます。そうした経験を自らが進歩を求める原動力に変えているのです」

中国スポーツ界のレガシーとして銘記

容さんは引退した後、中国サッカー協会の副会長になり、中国サッカーの普及と向上をライフワークとして取り組んできました。2021年4月から、容さんは中国サッカー協会技術委員会の顧問に就任しています。

容さんが選手として活躍した時代から約40年が過ぎました。しかし、彼が残したスポーツマンシップの真の姿が忘れられることはありません。

2009年、新中国が成立60周年を迎えた年、新中国のスポーツ事業の功労者の一人に容志行さんが選ばれました。当時の胡錦涛国家主席は表彰式で、彼の手を握り、「中国サッカーはこれからも“志行スタイル”を貫いていかなければならない」と話しました。

スポーツは「友情、連帯そして、フェアプレーの精神に基づく相互理解が求められる」「オリンピズムは人生哲学であり、肉体と意志と知性の資質を高めて融合させた、均衡のとれた総体としての人間を目指すものである」――これはオリンピック憲章に書かれている言葉です。

ややもすれば、メダルの数に目が奪われがちな今のスポーツですが、40年余り前の中国人アスリート、容志行さんが残したレガシーは、スポーツの本来の姿を考える際の鏡のようなもので、これからもスポーツ界から永遠に銘記されるべきことと言えます。(提供/CRI

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