「日本の小学校教科書で日本語を学ぶ」というのはどうなのか

大串 富史    2021年5月31日(月) 20時50分

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妹が日本からはるばる中国まで送ってくれた小学校1年生の教科書。日本の小学校教科書の「どうしてかというと」の用法の練習からしても、ボリューム的に日本語のバリエーションを外国人向けに全部網羅できない。

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「『中国の小学校教科書で中国語を学ぶ』というのはどうなのか」と題する前のコラムでご紹介させていただいたように、中国の小学校教科書のレベルは侮れない。小学校1年生の国語の教科書に、既に「掰」や「捧」といった新HSK6級レベルの漢字があったりするからだ。

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では、日本の小学校教科書で日本語を学ぶというのはどうなのか。

別コラムにも書いたが、日本の小学校の教科書を無償で海外在住の日本人の子弟に送ってくれるという非常にありがたい制度があるものの、台湾人と結婚し娘二人を育て上げ世に送り出した僕の妹は当初、小学校に上がった僕らのハーフの娘のため教科書を中国へ転送することに異議を唱えていた。

それは第一に数学(や理科)は中国の教育で日本の教育を代替できるから、第二に外国人が本当の意味で日本語を身に着けるのは本当に大変だから「国語の教科書なんかあってもなくても同じ」とのことだった。

この「教科書なんかあってもなくても同じ」という点で、日本語は国際共通語である英語と真逆なようにも見える。

というのも、英語学習法を紹介する某サイトは米国の小学校の教科書の英文を紹介、「英語初級者は小学3年生くらいを、それ以上の人はアメリカの小学5、6年生くらいを目指していけば、英語力向上につながる気がする」とのこと。「別の言い方をすれば、たかだか小学6年生くらいの英語力があれば世界のどこでも通用するくらいの英語力があると胸を張ってもいいかもしれない」ともあった。

その一方で日本語教師として中国人に日本語を教えていて一番困るのが、「日本でも通用するくらいの日本語力があると胸を張ってもいい」というレベルが、小学校の教科書レベルではないという点にある。

そんなわけで今回は、小学校教科書が日本語を学ぶ外国人(特に中国人)にとって実際どうなのか、妹が日本からはるばる中国まで送ってくれた小学校1年生の国語の教科書「こくご1上かざぐるま(光村図書)」を例に考えてみたい。

1.ひらがな・カタカナの習得:中国人の学生さんは時に、ひらがなの拗音(小さい「ゃ」「ゅ」「ょ」)や促音(小さい「っ」)を正確に読めなかったり、ひらがなは読めてもカタカナが読めなかったりする(「メロン」の「ロ」に中国語の口の字の発音を当てて「めこん」と読んだりする)。この点、日本人向けに書かれた小学校教科書は拗音・促音・カタカナをここかしこに容赦なく導入している点、好感が持てる。

なぜなら子どもというのは世界中のどこであっても小学校入学時点ですでに母語の「音」をほぼ完全に取得している。そして日本人の子どもたちの場合、その「音」は小学校入学前後からローマ字を介さず直接ひらがなやカタカナや漢字といった「文字」と結びついていく。

結果、大多数の日本人の子どもたちがたどたどしかったり読み間違えたりしながらも相応に教科書を読むことができる。つまり、もし中国人の生徒さんが相応にこの教科書を読めるなら「小学校に無事入学」、つまり日本語学習を始める基礎があることになる。

2.会話文:「ぼくは、おにごっこがすきだよ。」「わたしもすきだよ。」といった「だ・である調」の会話文は日本人の子どもにとっては日常そのものであり、日本語の勉強の導入にうってつけだ。次いで「むらたさんがすきなあそびは、おにごっこです。こんど、いっしょにおにごっこをしたいとおもいます」という発表文で、「です・ます調」も自然と学べるようになっている。

とはいえ、これを中国人の生徒さん向けに「僕は、アニメが好きだよ。」「私も好きだよ」「張さんが好きなものは、日本のアニメです。今度一緒にアニメを見に行こうと思います。」としてしまうと、子どもの会話になってしまい不自然さが残る。

それでこれを「僕は、アニメが好きかな。」「そうなんだ、私も好き!」「張さんの趣味は、日本のアニメだそうです。今度一緒にアニメを見に行く計画でいます。」などと言ってしまった場合、「かな」や「だそう」や「(計画)でいます」の説明をする必要が生じる。

しかし実際は上述のような発表をするのはむしろまれで、日常会話では「張さんの趣味も日本のアニメなんて、もろかぶりじゃん!」「今度一緒にアニメ見に行っちゃおうかなーなんて目論見中なんです。」ぐらいのバリエーションはまあ普通だから、こうなってくると「国語の教科書なんかあってもなくても同じ」論が再燃してしまいそうだ。

3.物語文:「おおきなかぶ」の「うんとこしょ、どっこいしょ」は中国の教科書だと「拔呀拔」となり、どちらも日常生活ではまず使わない。「おむすびころりん」など他の作品も中国の唐詩や三字経や西遊記と同じで、日本語学習というよりは日本語の雑学程度の意味合いのほうが強い。

とはいえ物語文は朗読の練習用として日本語のリズムやイントネーションを学べるので、その意義は思いのほか高いのかもしれない。逆の言い方をすれば、この手の日本語の物語を日本人にとってさほど違和感のないリズムやイントネーションで読める能力こそが、上級者とネイティブスピーカーとを隔てる見えない壁(本当の意味での発音の正確さ)となっている可能性がある。

4.説明文:「きつつきは、とがったくちばしで、きにあなをあけます。そしてきのなかにいるむしをたべます」といった程度の日本語の説明文なら意味がつかめるという日本語学習者は少なくないだろう。まずはこのレベルの説明文の意味がつかめるようになるうえで、小学校教科書は相応の役割を果たしている。

とはいえ「キツツキの仲間は木の中の小さな虫を餌にします。くちばしで木をつついて虫の居場所を探し、近くまで掘り進むと、長い舌を使って虫を引っ張り出します」という説明のほうがより正確ではある(「キツツキの長い舌 | NHK for School」)。これは教科書に問題があるというよりは、別コラムでコメントいただいたように日本人がTPOで(この場合は小学校1年生相手に)自然と日本語を使い分けることを物語っている。

だから「啄木鳥科の鳥類の食性は動物食傾向の強い雑食で、嘴の尖った先端を木に打ち付けて掘削し木の中にいる獲物を舌を伸ばして捕食する」という説明(「キツツキ科 - Wikipedia」から抜粋)は漢字を解さない外国人にとっては意味不明の極みであろうが、日本人にとっては全然普通なのだから困ったものだ。大人が普段目にする説明文と、小学校教科書とのギャップがあり過ぎる。

5.文法・語法・用法:僕が日本語教師として今回特に気になったのは、下記のような用法の練習だった。

「わたしは○○です。どうしてかというと、○○からです」

「どうしてかというと」という言い方は外国人のための日本語検定試験2級レベルの用法だから、中国の小学校1年生の国語の教科書に「掰」や「捧」といった新HSK6級レベルの漢字があったりするのとある意味同じである。小学校教科書ではあるが、外国人にすればやはり侮りがたい。

とはいえ、なぜ「なぜなら」ではダメなのか。そんなことは日本人であれば皮膚感覚で分かる。小学校1年生の子どもたちに、僕たち日本人はきちんとした子供の日本語を自然と期待するからだ。「どうしてなのかといいますと」や「どうしてかっていうと」も同様で、僕ら日本人からすれば模範的な小学校一年生の日本語ではない。

その一方で「どうしてかといえば」「どうしてなのかというと(いえば)」「どうしてなのかっていうと(いえば)」「どうしてなのかって(ね)」「どうしてかっていえば」「どうしてかって(ね)」「どうしてなら」「どうしてならば」「なぜならば」「なぜって(ね)」「なぜなのかというと」「なぜなのかっていうと」「なぜなのかって(ね)」「なぜかというと」「なぜかっていうと」「なぜかって(ね)」「なんでかというと」「なんでかっていうと」「なんでかって(ね)」といった言い回しを、日本人であれば大人も子供もTPOに応じて自由に使う。

つまり「どうしてかというと」という言い回しだけを教える小学校教科書の文法・語法・用法は、そのバリエーションが自然と分かる日本人にとっては役に立つだろうが、日本語を学ぼうとする外国人には説明が不十分であろう。

では日本の小学校教科書で日本語を学ぶのは、外国人的にはどうなのか。

1.ひらがな・カタカナの習得:100点/100点(本当に読めるかどうか確認できる)

2.会話文:40点/100点(子どもの会話を学べるが大人の会話を学べない)

3.物語文:50点/100点(本当の意味での日本語の発音の正確さを確認できる可能性がある)

4.説明文:40点/100点(簡単な説明の仕方のみを学べる)

5.文法・語法・用法:20点/100点(日本語を学ぼうとする外国人には説明が不十分)

小学校1年生前期の教科書だけではあるが、トータル50/100点(250/500点)となってしまった。思うに小学校1年生から6年生までのすべての国語の教科書を全部合わせたところで、教科書程度のボリュームでは日本語のバリエーションを外国人向けに全部網羅するというのは不可能に見える。

それでどうなるか。前に書いたコラムにもご反響いただいたが、「うちも日中国際結婚」だという読者の言う「読み書きは日本語が断然難しいと思います。会話なら日本語ぺらぺらでも、日本暮らし30年でも、(外国人に日本語の)文章を書かせると小学一年生みたいになります」という現象が生じる。

前にも書いたが、僕が中国人に「まあ(日中ハーフの)娘が小学校に上がるのと一緒に小学校に上がって(つまり宿題を見るなりして一緒に中国語を勉強し)、娘が卒業する頃には一緒に卒業できると思います」と常々言うのは、笑いを取るためだけではない。実際にそうなのだ。コミュニケーションツールとしての中国語は、ネイティブの小学校卒業レベルが相応のレベルであるという点で英語と似ている。

ところが日本語は、百科事典の説明文なり(読解)、大学入試の小論文なり(作文)、学生の接客バイトなり(大人同士の会話)まできてやっと「卒業」となる。

僕らのハーフの娘は半分日本人なため、日本の小学校教科書は非常にありがたく役に立っている。とはいえ片親は日本人でなく日本で子どもを育ててもいないから、日本の国語の教科書が前提にしているように見える授業外の日本語環境を子どもに提供する面では明らかにハンデがある。

まして日本語を学ぶ外国人は、小学校教科書だけでは全然足りそうもない。日本に移民としてやって来る外国人の子どもたちはまだしも、外国人の親たちは相応の努力をしないと「卒業」できず、日本社会での日常生活に支障が生じる。

もう何度も書いたのだが、日本への移民や日本語学習者がじりじりと増加している。「そんなこと知りませんよ!」と言ってはいられなくなる日が、日本語と日本語教科書にもやがて訪れるのだろうか。

■筆者プロフィール:大串 富史

本業はITなんでも屋なフリーライター。各種メディアでゴーストライターをするかたわら、中国・北京に8年間、中国・青島に3年間滞在。中国人の妻の助けと支えのもと新HSK6級を取得後は、共にネット留学を旨とする「長城中国語」にて中国語また日本語を教えつつ日中中日翻訳にもたずさわる。中国・中国人・中国語学習・中国ビジネスの真相を日本に紹介するコラムを執筆中。

関連サイト「長城中国語」はこちら

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