「青島に救われた」80歳の日本人が逝去、生前に遺体の提供を申し出る―中国メディア

Record China    2014年3月5日(水) 20時56分

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5日、青島市●山区沙子口(●=やまへんに労の上の3点部が火火、下は刀)に住む日本人、大工園次郎さん(当時73)は2007年1月、献体ボランティア同意書を市赤十字会スタッフに手渡した。今月3日早朝、80歳となった大工園さんは病気のため亡くなった。

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2014年3月5日、青島市●山区沙子口(●=やまへんに労の上の3点部が火火、下は刀)に住む日本人、大工園次郎さん(当時73)は2007年1月、献体ボランティア同意書を市赤十字会スタッフに手渡した。今月3日早朝、80歳となった大工園さんは病気のため亡くなった。大工園さんの生前の委託にしたがい、青島ベリア国際医療センター外来の劉詔(リウ・ジャオ)院長は、青島に献体し、好きだった街に留まるという大工園さんの最後の願いをかなえた。市赤十字会、青島大学医学院が大工園さんの遺体を授かり、教育や科学研究に捧げられる。大工園さんは青島で献体した初めての外国人で、また青島で405人目の献体者となった。青島早報が伝えた。

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■現場:逝去して献体した日本人

3日午前、記者は市赤十字会スタッフと一緒に青島市立病院(東)の青島ベリア国際医療センターを訪れた。外来院長の劉詔氏は大工園さんの委託書を手に、大工園さんの生前の願いに基づき、市赤十字会、青島大学医学院と遺体引き渡し手続きを行う、と語った。「大工園さんは私が最も敬服する患者でした。生前はとても楽観的でした」。劉詔氏は、大工園さんに青島に身寄りがないことを知っており、大工園さんが入院中に記した委託書のなかで、院内スタッフに手術同意書へのサイン代行を委ね、もし亡くなったら、大工園さんが生前に署名した献体同意書に基づき、外来部に対し、赤十字会との献体手続きの連絡を代行するよう望んでいた、と述べた。

手続きはすみやかに済んだ。大工園さんの遺体は霊安室から出て、スタッフが大工園さんの遺体に三度の礼をした。その後大工園さんの遺体は青島大学医学院解剖教育研究室に移送され、告別式が営まれた。「大工園さんの遺体は処理を経て、医学教育研究に用いられます」。青島大学医学院解剖教育研究室の劉志才(リウ・ジーツァイ)氏は、数年後、大工園さんの遺体は火葬され、大工園さんの願いにより、遺骨の半分は友人を通じ日本に帰り、のこり半分は青島の海に水葬され、この街に融け合うことになる、と語った。

市赤十字会によると、大工園さんには妻も子どももいない。2003年頃、日本から青島に来て、日系企業で海外国際貿易部長を務めていた。「当時大工園さんは、多くの街を訪れたが、青島だけを愛している。一生青島で過ごしたい、と語っていらっしゃいました」。市赤十字会献血・骨髄移植ドナー・献体弁公室の張少芹(ジャン・シャオチン)処長によると、2007年に張処長は自ら大工園さんのために献体ボランティア同意書の登録手続きを行った。大工園さんは中国語ができず、通訳を通じ張処長に、青島が自分に第二の命を授けた。自分も最期は青島に貢献したい、と伝えた。

青島早報の当時の大工園さんに関する報道によると、大工園さんの献体の願いは、2006年4月1日に遡る。友人と会食中だった大工園さんは突然、めまいを感じ、気を失った。友人がただちに大工園さんを近くの病院に搬送した。検査の結果、大工園さんは動脈瘤破裂の可能性があり、腹腔内に血液がすでにたまっていた。医師による緊急手術の末、当時72歳だった大工園さんは無事、この難関を乗り越えた。

「青島の方々に救って頂いた。新たな人生を授かった。ずっと中国、青島に留まることができたら、と願います」。大工園さんは当時このように語った。

高齢になるにしたがい、大工園さんの健康状態は悪化した。昨年から、大工園さんは青島ベリア国際医療センターで治療を受けた。「2カ月前、大工園さんの病状が悪化し手術が必要になった際、大工園さんは私と相談しました。大工園さんは青島に親戚はおらず、日本にも家族はいない。私どもセンターに対し大工園さんは、手術同意書へのサイン代行と、献体に関する連絡についてお願いを託されました」。劉詔氏は記者に、大工園さんが自らの委託書に、とりわけ献体の件について劉さんに任せると記した、と述べ、「大工園さんの願いを必ず叶えたい」と語った。(提供/人民網日本語版・翻訳/HT・編集/武藤)

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