近代以降の、日本人の人種アイデンティティー―中国メディア

Record China    2020年11月17日(火) 8時20分

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15日、澎湃新聞は、近代以降の日本人の「人種アイデンティティー」について論じた文章を掲載した。

2020年11月15日、中国メディアの澎湃新聞は、近代以降の日本人の「人種アイデンティティー」について論じた文章を掲載した。以下はその概要。

日本は1868年に明治時代に入ると、国の存続のために急速な「西洋化」を進めていき、この時期に人類学、進化論、優生学などといった西洋の科学的人種主義が日本に入った。そして、海外に渡った日本人や日本国内の知識階級、社会エリートらが「日本人種は人種序列の下層にあり、黄色人種、モンゴル人種などと定義されている」ことに気づき始めた。

1884年、福沢諭吉の弟子で「時事新報」記者だった高橋義雄が「日本人種改良論」を出版。劣等民族から脱出するには「混血」という人為的な淘汰を行わなければならず、日本人にとって欧米の「優等人種」こそ理想の結婚相手であると主張した。これは、人種上の「脱亜論」というべきものである。

1904~05年の日露戦争では、日露間の対立が東洋と西洋、黄色人種と白色人種の対立であることが強調された。そして、この戦争に勝利した日本を待っていたのは、西洋からの歓迎ではなく、日本人をはじめとする黄色人種が欧米の白色人種にとっての脅威となるという「黄禍論」だった。

第1次世界大戦後の1919年、日本の全権代表がパリ講和会議で「人種平等」の提案を行うも、米英など西洋諸国から拒否された。24年には米国が日本の猛抗議を無視して排日移民法を制定した。人種の「脱亜論」が挫折すると、多くの日本人は「アジア主義」へと転向することになる。「同文同種」「大東亜共栄圏」などがこの時期の政治スローガンだったが、それは日本による他のアジア諸国、アジア人種に対する蔑視であり、「西洋世界から拒絶された後のやむを得ない次善策」だったのである。

歴史を振り返ると、近代以降の日本人の人種アイデンティティーは、東洋と西洋の狭間で絶えず揺さぶられながら形成、変化してきたものであることがわかる。彼らは長きにわたり人種主義の暗い影に身を置く一方で、他国に対する人種差別や人種アイデンティティーの政治利用もしてきた。

今、人種主義が再び国際社会における焦点の1つになっている。人種の平等という概念が人びとの心に深く定着するには、まだまだ長い道のりが必要だ。(翻訳・編集/川尻

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