<コラム>富岡製糸場を訪問、元航空機エンジニアが育てた日本繊維産業と自動車産業

工藤 和直    2020年8月26日(水) 22時20分

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富岡製糸場は明治5年に明治政府が日本近代化のために設立した模範器械製糸場。当時としては世界最大規模の製糸場であった。

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富岡製糸場(群馬県富岡市富岡1-1、2014年6月世界遺産登録)は明治5年(1872年)に明治政府が日本近代化のために設立した模範器械製糸場。設立前に武蔵・上野・信濃の地域を調査し、良質な繭の確保、広い土地、製糸に必要な水、蒸気機関燃料用石炭、地元の人たちの同意が条件で富岡が選ばれた。当時としては世界最大規模の製糸場であった。

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昭和13年(1938年)には(株)富岡製糸所として独立し、昭和14年(1939年)には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績(株)(現・片倉工業(株))に合併、戦後は自動繰糸機を導入して長く製糸工場として活躍したが、日本の製糸業の衰退とともに昭和62年(1987年)3月ついにその操業を停止した。平成17年(2005年)9月に建造物の一切が富岡市に寄贈されて現在も富岡市が保存管理を行っている。平成17年7月には国の史跡となり、平成18年(2006年)7月には主な建造物が重要文化財、さらに平成26年(2014年)12月には繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が「国宝」となった(写真1)。

富岡製糸場正門を入ると、昔からの守衛室が左にあり、正面に赤レンガの東置繭所があり、反対側には西置繭所がある。置繭所(おきまゆじょ)とは北の乾燥場で石炭を燃やした熱で繭を乾燥させ、その後自然乾燥で大量の繭を保管する置場である。その後、南の繰糸所(そうしじょ)は繭から一定の太さの糸を巻き上げる工場で、7個程度の煮繭から細い糸を多本撚り上げて一本の糸にする。この繰糸所に「ニッサンHR型自動繰糸機」がどんと7台近く設置されていた(写真1下)。ニッサンとはあの自動車メーカーの日産自動車である。トヨタ自動車は豊田佐吉が自動織機を発明し、その後自動車産業を長男喜一郎が育て上げた事で繊維産業との関係は当初からあったが、ダットサンの愛称で知られる自動車メーカーが何故繭から生糸を作る設備を作っていたかと不思議であったが、その沿革を知ることで理解ができた。

製糸場南端に妙義寮がある(写真1左)。工女の宿泊施設だが、合わせて教育施設もあった。休日には女性として必要な裁縫などを含め良妻賢母になる教育制度があった。これは、片倉工業のメイン工場であった大宮製糸工場(現在のさいたま都心駅前)内にも同じような教育施設があり、ここが現在は埼玉県立大宮高等学校になっている(参考:さいたま新都心駅前の原点は蘇州第一シルク工場にあった)。

日産自動車は昭和41年(1966年)にプリンス自動車と合併した。このプリンス自動車は大正14年(1925年)設立の立川飛行機で前身は陸軍戦闘機「隼」を開発した石川島飛行機製作所である。戦闘機「隼」の量産は立川が行っていた。戦後、GHQより航空機開発は一切禁止され、昭和22年(1947年)には東京電気自動車と改名して電気自動車開発と平和産業事業として製糸技術に着目して「自動繰糸機」の開発に着手した。

昭和24年(1949年)には「たま自動電気自動車」と改名、1回の充電で100km走る電気自動車を販売した(写真2)。現在、日産自動車は電気自動車(e-Power)を製造販売しているが、原点は「たま電気自動車」にあった。昭和27年(1952年)には「プリンス自動車工業」と改名し、スカイライン・グロリアなどの名車を世に出した。昭和24年頃、蚕糸業界は官民一体となって「繰糸機」の自動機開発にやっきになっており、たま自動車では“たま4型”自動繰糸機から“たま10C”型自動繰糸機を開発した。

プリンス自動車が日産自動車と合併した昭和41年以降も自動繰糸機の開発は続き、昭和46年(1971年)には世界一性能の設備「ニッサンHR-2型自動繰糸機」が世に出され、全世界に出荷され、国内シェア50%を占めるに至った。明治5年にフランス技術でスタートした日本製糸業はついには、当時の先進国であったフランス・イタリアに最新技術を里帰りさせるに至った(高林千幸「自動車メーカーによる自動繰糸機の開発」)。

終戦時、立川飛行機には多くの若き航空機エンジニアが居た。遠距離爆撃機(キ74)の設計開発を行った田中次郎技師は、たま自動車で電気自動車の開発にあたり、その後は日産自動車でエンジン自動車開発も担当し、最後には日産自動車専務取締役となった。もう一人、長谷川龍雄技師は、たま自動車に残らずトヨタ自動車で旗艦車でもあるカローラの開発主査となって、日本自動車工業発展の原動力になった。最後は、トヨタ自動車専務取締役となった。長谷川は立川時代に高度防衛戦闘機(キ94)の開発に携わっていた。戦前に航空機開発に従事した多くのエンジニアは戦後、繊維産業から自動車産業に到る多くの分野で活躍し、技術立国「日本」の原動力になった。

■筆者プロフィール:工藤 和直 1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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