<コラム>中山道の宿場町「大宮」から鬼平が仕置きしたさいたま新都心前「下原刑場」を歩いて

工藤 和直    2020年8月21日(金) 23時0分

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渓齊英泉が画いた木曾街道大宮宿は、JR大宮駅から南に4km行った針ヶ谷から見た富士山を画いたものだが、当時から残る庚申塔を左に置いても、富士山はもっと左にあり、富士を絵の中心にずらしたものだと分かる。

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大宮宿は江戸時代に整備された中山道(木曾街道)六十九次の一つで日本橋から4番目の宿場であった。現在では、さいたま市大宮区にあたる。大宮は武蔵一の宮「氷川神社」の門前町、寛永年間(西暦1624~1645年)に宿場町として駅が置かれた。当時の資料で見ると、日本橋から7里16丁(29.2Km)で本陣1、脇本陣9、旅籠25から成り、人口1508名・民家319軒とある。大宮駅東口側の中山道沿いに高島屋があるが、その辺りが当時の中心地になる。江戸時代の人々が旅行などで歩く距離が一日30~40kmであったので、江戸から出るにも入るにも、ちょうど一日行程にあたる大宮が宿場駅として発展したのは、納得が行く。

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天保年間(西暦1835年頃)渓齊英泉が画いた“木曾街道大宮宿”は、JR大宮駅から南に4km行った針ヶ谷(現在の大原陸橋交差点)から見た富士山を画いたものだが、当時から残る庚申塔(正徳4年、西暦1714年創建)を左に置いても、富士山はもっと左(南西方向)にあり、富士を絵の中心にずらしたものだと分かる(写真1)。

明治16年(1883年)に上野-熊谷間の国鉄が営業開始した時、浦和から上尾間には駅はなかった。その後、東北本線をどこで分岐させるのか検討した時、浦和・大宮・熊谷の3つの候補があった。浦和は岩槻の住民反対があり、熊谷は遠く宇都宮から最短距離の大宮に決定した。

JR大宮駅周辺を江戸時代文化3年(西暦1806年)に画いた“中山道分間延絵図”があるが、現在も残る安藤橋・涙橋・東光寺・宗金寺跡の位置から現在の中山道界隈を推定できる(写真2)。内倉本陣は現在すずらん通り出口にあるが、周辺には古い土蔵や稲荷神社祠などが見られる。大宮駅東口から右に高島屋が見えるがこの周辺が当時の大宮宿の中心地で、紀州鷹場本陣はこの高島屋の位置にあったが、安永4年(1775年)の大火で焼失した。今も屋上に北澤稲荷神社があるが、本陣になる前は寿能城家老北澤家の屋敷跡であったので、屋敷神であった。

南に下ると、東側に高札場があった。道筋から推定するに(写真2中央)が高札場付近だ。更に南に下ると第四銀行南に溝川があり中之橋があった。この橋は、さいたま新都心駅前にあった下原刑場へ行く罪人家族が最後に見送る橋で“涙橋”といわれた。その南の吉敷町交差点に安藤橋(悪水抜石橋)石碑が残っている。当時の記録では長さ7尺(2.1m)×幅1間4尺(3m)とあるので、中山道2間(約3.6m)に対し、幅3mほどの橋が架かっていた(写真2)。

さいたま新都心駅は大宮駅のひとつ南にあるJR主要駅で2000年5月5日から営業開始、ちょうど開業20周年となった。東口は旧中山道が走り、道路の向こうにコクーンシティ・造幣局・氷川神社参道などがある。開業前は「南大宮駅」と命名される予定だったが、現在の革新的な駅名が採用された。

駅改札口を出て東のエレベータを降り右に60mほど歩くと高台(たかだい)橋がある。不思議な橋で右を見ると水路が見えるが、左は暗渠(あんきょ)になって道路の中に水路がある。右の水路も駅構内(京浜東北1番線ホーム近く)は同じく長い暗渠(明治時代に赤レンガアーチトンネル)になって地上に橋はない。この水路が高沼用水路である(写真3)。

江戸幕府は、罪人の処刑場として下原刑場を設置した。江戸三大刑場のひとつである。高台橋付近にあたり、現在のさいたま新都心駅の東側一帯は一面野原であり、高台橋河原が処刑場であった(写真3)。下原刑場は、主に武蔵国の罪人の処刑が行われ、長谷川平蔵宣以(のぶため)に捕らわれた盗賊団の頭目「真刀(神道)徳次郎」の一族郎党の処刑(寛政元年、1789年4月)が記録されている。鬼平こと長谷川平蔵は火付盗賊改方長官として池波正太郎による連載時代小説「鬼平犯科帳」で有名だが、実在の人物である。真刀(神道)徳次郎は別名「神稲(しんとう)小僧」という関八州を荒らしまわった大盗賊で、神道流の剣術の使い手であったことから元は武士と思われ、十数人の手下を使った大掛かりの盗賊の頭であった。この捕縛事件によって、一躍“鬼平”の名前が有名になったという。

明治元年(1868年)の明治天皇の氷川神社行幸の際に地元から刑場廃止の嘆願書が出され、廃止に至った。跡地は片倉工業大宮製糸所として利用された。さいたま新都心駅前で江戸時代の面影を残すものは刑場の供養塔である高台橋東側「火の玉不動尊」のみとなっている(写真4)。

■筆者プロフィール:工藤 和直 1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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