イルカ漁師の3代目、イルカの涙を見て「不殺」を誓うも収入は減少=地方には産業もなく―中国メディア

Record China    2014年1月28日(火) 6時10分

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27日、和歌山県の南東に位置する太地町では毎年11月、太地浦くじら祭が開かれる。クジラをテーマにした歌や踊りが披露され、露店ではクジラ肉やイルカ肉が提供される。

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2013年1月27日、和歌山県の南東に位置する太地町では毎年11月、太地浦くじら祭が開かれる。クジラをテーマにした歌や踊りが披露され、露店ではクジラ肉やイルカ肉が提供される。なぜイルカ肉を食べるのかとの質問に、子供連れの女性は「長く続いてきた食文化であり、食べるのは普通のこと」と話した。新京報が伝えた。

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太地町は、太平洋に面した小さな漁村で、総人口は3200人に満たない。映画「ザ・コーヴ」でイルカ漁の実態が明らかにされてからというもの、毎年イルカ漁の季節になると、漁港の周りには西側諸国の動物愛護団体がどっと押し寄せる。彼らはビデオカメラを手に漁民と対峙し、イルカの大量虐殺をやめるよう要求する。

日本のイルカ追い込み漁が今も行われている同町では、今年も数百頭のイルカが漁獲された。近代的な文明国である日本で、なぜ今もこのような伝統的風習が残されているのだろう?

太地町の観光サイトによると、太地町は「古式捕鯨」の発祥地であり、江戸時代には現地の豪族、和田家一族が捕鯨技術の研究を進め、現在の追い込み漁の前身となる捕鯨技術を考案した。現地の記録によると、追い込み漁が始まったのは1933年以降で、「ザ・コーヴ」で見られるような、海一面が真っ赤に染まるほどの追い込み漁が始まったのは1960年代末からだという。

現在各地で行われているイルカ漁の目的は主に食用で、一部は生体捕獲されて水族館のイルカショーや研究用に使われるものもある。太地町で殺されたイルカも主に、食肉用としてスーパーに提供されている。このほか、害獣駆除の手段として漁が行われるケースもあり、長崎県の壱岐島では、1970―1980年代において、大規模なイルカ追い込み漁が害獣駆除目的で行われていた。これは近海のイルカが魚を食べることで、現地の漁業に影響を及ぼすことを防ぐためだ。しかし、壱岐島ではイルカ肉を食べる習慣がなかったため、殺されたイルカのほとんどは、飼料や肥料の原料として活用された。日本では戦後、貴重なたんぱく源として鯨類の肉が供給された。現在でも一部のスーパーでイルカ肉を手に入れることができる。

▼なぜイルカ漁を止めないのか?

イルカ漁をめぐる議論は、安倍首相のFacebookにも飛び火している。「モザンビークを訪問している」という全く捕鯨と関係のない投稿のコメント欄に、国内外から「野蛮な殺りくをやめてください」といった意見が寄せられている。 一方、「日本に対してだけ延々とクレームする姿勢がアンフェアとしか思えない」との意見も見られた。

2010年11月には、反捕鯨団体と太地町側の意見交換会が行われた。太地町・三軒一高町長は、「双方の観点が180度違い、意見がかみ合うことはなかった」と述べた。インタビューに答えたある漁師は、「問題がヒートアップすれば、大規模な衝突に発展するだろう」、「我慢できないのは、イルカ漁を隠し撮りされたこと。生活のためにイルカ漁をしているのに」と語った。

2009年のデータによると、人口約3200人のうち、漁業従事者は465人。ある漁業関係者は「来てみればわかるが、この田舎に大きな産業はない。多くの漁師はイルカ漁で生計を立てている」と語る。

もちろん、イルカ漁をやめた人がいないわけではない。イルカ漁師としては3代目という、静岡県伊東市富戸生まれの石井泉氏は、猟のときにイルカの涙を目にし、二度と殺さないことを誓った。今は観光客向けにドルフィンウォッチングのガイドをしている。しかし、転職後に石井氏の収入は減少し、生活も厳しくなった。(提供/人民網日本語版・翻訳/SN・編集/武藤)

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