<羅針盤>東京パラ「車椅子バスケ競技」除外回避を=身障者スポーツ創始者を想起―立石信雄オムロン元会長

立石信雄    2020年2月9日(日) 5時50分

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パラリンピックの花形競技である車椅子バスケット競技で難題が起きた。国際パラリンピック委員会が、2020東京パラリンピックから外す可能性があることを明らかにしたのだ。

東京パラリンピックまで半年。これまで地味な存在だったパラリンピックに関する話題がテレビや新聞・雑誌などで取り上げられ、競技試合も放映されるようになってきた。スポーツを通じて障がい者への理解が進むのはうれしいことである。

こうした中、パラリンピックの花形競技である車椅子バスケット競技で難題が起きた。国際パラリンピック委員会(IPC)が、車いすバスケットボールを2024年のパリパラリンピックの実施競技から除外すると発表。あわせて、東京パラリンピックからも外す可能性があることを明らかにしたのだ。選手のクラス分けがIPCの基準に合っていないことを理由としているが、衝撃的な出来事である。

詳しいことはわからないが、パラリンピック競技での「クラス分け」とは、障がいの度合いに応じて決められる分類のことのようだ。障がいの部位、程度で運動能力に差が生まれるため、公平になるように同程度の障がいのある選手同士で競えるようにするためという。

◆「障がいの程度」クラス分け基準に相違

国際パラリンピック委員会(IPC)にはクラス分けに関する基準があり、各競技はそれに従い、クラス分けを行なっている。ところが国際車いすバスケットボール連盟(IWBF)のクラス分けはその基準と異なっているとIPCはかねてから指摘してきたという。

車いすバスケットボールは、障がいに応じて、1.0から4.5まで0.5刻みに、各々の選手に「持ち点」が設定され、数字が小さいほど障がいの程度が重く、大きいほど軽いことを示している。コート上の5人の持ち点の合計は、常に14点以内でなければならず、障がいの重い選手、軽い選手を組み合わせてバランスを取ることが必要となる。

 IPCは限りなく健常者に近い運動能力を持つ選手が出場していることを問題視。2021年8月末までにこの分け方がIPCの基準と合致しなければパリ大会除外を取り消すとした。東京大会については、5月29日までに4.0、4.5のクラスをIPCの基準に合わせることを求めているという。どのレベルまでパラリンピック出場の権利を認めるかということあり、クラス分けの見直しと言っても、容易なことではない。

クラス分けは、例えば医師の診断書に基づいて機械的に行なわれるわけではない。公認の資格を持つクラス分けの委員が、選手の練習や試合でのプレーを観察し、選手が自身の備える身体機能を用い、どのように動作しているかを評価する過程を経なければならないからだという。

解決に至らなければ東京大会から車椅子バスケット競技が除外される可能性があることも大きな問題だが、何よりも、クラス分けの見直しによって、参加資格を失う選手が出る懸念があることも見逃せない。

ルールに基づき、クラス分けを受け、プレーをしてきた選手にとっては大問題である。4年に一度の大舞台を目指してきたのに、大会が間近に迫っている今になっての異常事態である。

◆障がい者の社会復帰に一生を捧げた中村医師

こうした中、「太陽を愛したひと ~1964 あの日のパラリンピック~」とういうNHKノンフィクションドラマを改めて鑑賞した。1964年の東京パラリンピックを主導して成功に導き、障がい者の社会復帰に一生を捧げた中村裕・医師の人生を描いた感動の物語である。

1960年、整形外科医の中村裕博士は研修先のイギリスで、スポーツを取り入れた障害者医療を学んだ。その時に出会った言葉が、その後の彼の人生の原動力になる。

「失ったものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」。

帰国した中村医師は、障がい者スポーツを何とか広めようとするが、日本ではリハビリという言葉すらなかった時代。「見世物ものにしないでほしい」と抵抗にあうが、下半身が不自由な少年との出会いをきっかけに、車椅子バスケットボールを少しずつ普及させていった。

中村医師は1964年の東京オリンピックと同時開催されたパラリンピックの成功に向け奔走。社会の常識という壁が立ちはだかり、障害者の家族からも反対の声が上がったが、家族や仲間の支えで、次々と突破。東京パラリンピックを成功に導いた。その後、障害者自立のための施設を設立するなど、障害者の社会復帰に尽力した。

ドラマの後半部分に人気俳優の向井理さん演じる中村医師が立石電機(現オムロン)本社を訪ね、田山涼成さん扮する立石一真社長(オムロン創業者)に懇願するシーンがある。「これまで多くの企業に要請したが、断られました。障害者自立のための施設の設立に協力してほしい」。父の一真は「共同出資という形でやりましょう」応諾。その後社会福祉法人「太陽の家」とオムロンとの協力による身体障害者のための福祉工場が設立され、工場で身障者が生き生きと働く様子がドラマで再現された―。

◆身体障害者の福祉工場「オムロン太陽」

太陽の家は、大分県別府市、愛知県、京都府にある身体障害者が社会復帰するための訓練施設である。オムロンでは「太陽の家」の活動趣旨に賛同し、資金を寄付するとともに、「太陽の家」との合弁により、身体障がい者が働きやすい環境を整えた福祉工場「オムロン太陽(大分県別府市)」と「オムロン京都太陽」を設立した。

設立するに至ったもともとの経緯は、前述のドラマで描かれた創業者・立石一真と故・中村裕医学博士との出会いにある。1971年9月、中村博士と評論家の秋山ちえ子氏が重度身体障害者の社会復帰のことで、京都・御室の本社まで依頼に来られた。中村博士は整形外科の名医で、以前から別府に私費を投じて重度障がい者の職業訓練のため、その施設として社会福祉法人「太陽の家」をつくり、自ら理事長になっていた。中村博士のお話では、「訓練には丸々2年かかるが、すでに400人の重度身障者を社会に送り出した。ところが、そのうち1割しか就職していない。身障者の訓練には特別に骨が折れるのに、それが無駄になっている」ということだった。

この就職率の低さは、企業側の受け入れマインドの不足もさることながら、受け入れ施設の不備もわざわいしていた。重度身障者が働きやすく、居住にも便利な受け入れ体制を持った専門の工場をつくるより方法がないという結論になり、この工場の建設に協力してほしいと言ってこられたのである。

当時、私は入社していたから経緯を覚えている。当社では経営的に引き受けるのは難しい状況であったが、『企業は社会の公器である』との社憲の精神にのっとり、太陽の家との合弁で日本初の身体障がい者福祉工場、「オムロン太陽」を1972年に設立した。そして、1986年には京都にも「オムロン京都太陽」を設立した。これらの工場ではセンサーやソケット、プログラマブルーコントローラといった電気機器の製造・販売を行なっている。このふたつの工場では、障害をもっている人が約300人おり、そのうち半数が重度障害者である。

◆障がい者が自ら「働きやすい環境」つくる

工場構内の配置は「障がい者が働きやすく、生活しやすく」をベースに、仕事エリアと生活エリア、すなわち職住が接近しているのが特徴だ。また、彼らが働きやすいように、随所に工夫が凝らされている。たとえば生産ラインは、車いすで自由に動けるように広くとった通路設定や、ハンディを補うさまざまな工夫を施した多品種少量生産に対応する生産ラインとなっている。また、作業をする上で不自山な部分は社員が自分たちで工夫し、独自の補助器具や治工具を製作するなどして、生産性の向上を図っている。たとえば、車いすに乗ったままでも無理なく使用できるATMは、オムロン京都太陽の社員が開発に参加し、操作パネルの高さなどを調整して、完成させた。

中村医師が障がい者スポーツを広めパラリンピックの礎を築いたことに改めて敬意を抱いた。障がい者福祉工場は全国に拡大したが、当社創業者の父・立石一真の決断がその先鞭をつけたことを誇らしく思う。

東京パラリンピックでの車椅子バスケット競技に浮上した難題。パラリンピック関係者は、中村医師が注いだ「障がい者ファースト」の精神を引き継いて、競技中止という事態に陥らないよう総力を結集してもらいたい。

<羅針盤篇52>

■筆者プロフィール:立石信雄

1959年立石電機販売に入社。1965年立石電機(現オムロン株式会社)取締役。1995年代表取締役会長。2003年相談役。 日本経団連・国際労働委員長、海外事業活動関連協議会(CBCC)会長など歴任。「マネジメントのノーベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』受賞。同志社大名誉文化博士。中国・北京大、南開大、上海交通大、復旦大などの顧問教授や顧問を務めている。SAM(日本経営近代化協会)名誉会長。エッセイスト。

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