古びたアメトラが日本人の手で世界のトレンドに変化―中国メディア

人民網日本語版    2019年11月5日(火) 19時40分

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背の高いW・デイビット・マルクスさんがソファーに座り、無意識に長い足を折り曲げると、ショート丈のチノパン、光沢ある褐色のローファーがよく見えるようになり、暗褐色の花柄ジャケットととてもよく合っていた。写真は東京。

背の高いW・デイビット・マルクスさんがソファーに座り、無意識に長い足を折り曲げると、ショート丈のチノパン、光沢ある褐色のローファーがよく見えるようになり、暗褐色の花柄ジャケットととてもよく合っていた。日本で長年暮らしてきたこの米国の文化記者は、いつも隙のないコーディネートをするようになり、米国人にはない洗練さを見せていた。第一財経網が伝えた。

マルクスさんがハーバード大学で学んでいた頃、これはさえない教授はいつも着ていたやぼったい服で、母親に連れられて教会に行くときの服と同じだった。当時、反抗心あふれるマルクスさんが好んで着ていたのはファッションブランドのシュプリームで、日本製のジーンズをはき、ア・ベイシング・エイプの迷彩バッグを背負い、今、街を歩いているおしゃれな人と同じようなファッションをしていた。「今ではシュプリームやア・ベイシング・エイプを着ていると、みんなにすごくおしゃれだと思われるが、当時は誰にも理解されなかった」という。

マルクスさんの日本のストリートファッションへの興味は、1990年代から流行が始まったJ-popに端を発する。J-popに夢中になった17歳のマルクスさんは、日本の田舎の町に3週間ホームステイして交流し、この経験が彼の人生行路を決定づけた。米国南部の知識人の家庭で育ったマルクスさんは、毎日MTVで音楽を聴き、米国が世界で一番かっこいい国であり、東欧とソ連の激変は彼の国の人々が米国のジーンズやマイケル・ジャクソンにあこがれていたから起きたのだと無邪気に考えていた。

日本の慶応義塾大学商学研究科の修士課程を終えると、マルクスさんは日本に移住し、雑誌の「ザ・ニューヨーカー」、「GQ」、「ポパイ」などに文章を書きながら、街を歩いて流行文化の調査研究にいそしんだ。すると、「米国では数十年かかって金曜日のカジュアルデーが1週間すべて軽装のカジュアルウィークに変わっていったが、日本人はなんと米国のファッションの伝統を守っていた。これはアラブ人が欧州の暗黒時代にアリストテレスの物理学を守り抜いたのと同じようだ」ということを発見して、非常に驚いた。

日本では、ファッションの米国化とは単に米国を偶像視することではなく、米国ファッションに新たな文脈を与えることだった。日本人はこれまで外来文化を受け入れ、変化させ、外に発信してきた。マルクスさんはこれを「道筋の再建」と呼ぶ。日本に定住して十数年経った頃、マルクスさんは英語の著作「AMETORA(アメトラ)日本がアメリカンスタイルを救った物語 日本人はどのようにメンズファッション文化を創造したのか?」を書き上げ、最近になって「原宿ジーンズ:日本のストリートファッション50年」の題で中国語簡体字版も刊行された。

今から50年前、ボタンダウンシャツ、カジュアルジャケット、細身のチノパン、柄物のネクタイ……こうしたアイテムを擁する米国のアイビールックが海を渡って日本にやって来た。アパレルメーカー経営者の故・石津謙介氏が創業した「ヴァンヂャケット(VAN)」は1959年に最初のアイビールックを打ち出し、米国ブランドのブルックス・ブラザーズのカジュアルジャケット第1号を完全復刻した。その後、64年の東京五輪で石津氏が日本代表チームのためにデザインした紅白のアイビー調ユニフォームが、熱狂的なアイビーブームを巻き起こした。

60年代が転換点になったのは、主に日本が第二次世界大戦後の10年間で経済復興を果たし、対外的に開放されていったことによるものだ。海外渡航は自由化されたものの、米国への航空券は片道が65万円で、新車1台が買えるほど高額だった当時、ヴァンヂャケットは社員8人を米国に送り出し、本物のアイビールックを写真に収めさせた。しかし実際に行ってみて一行がショックを受けたのは、米国の学生の標準装備はTシャツ、短パン、ビーチサンダルで、3つボタンの梳毛織物のジャケットを着ている学生など全然見かけなかったことだった。だが、そのジャケットは日本人が米国東海岸のキャンパスの標準服だと考えてあこがれていたものだった。やっとのことで、エール大学に9分丈パンツの学生がいたが、彼の話を聞くと「ファッションなんて考えたこともない。このパンツは洗っていたら縮んで短くなっただけ」ということで、コーディネートやファッションとは全然関係がなかった。

男性ファッション誌「メンズクラブ」編集部にいたくろすとしゆき氏は、「アイビールックは米国が発祥だが、日本で50年の発展を遂げ、今や『日本の遺伝子』が入っている。ポークカツレツのようなもので、元々はドイツの料理だったが、今やとんかつとして日本料理の一部になった」と総括した。

アメリカンスタイルが持ち込まれ、誤解され、改良され、日本の流行文化がアイビールック、ジーンズブーム、ヒッピーファッション、西海岸カジュアル、レトロファッション、ニューヨークのストリートファッション、定番のワークウェアなどを経験する中、数々のファッションが数十年にわたって続々と日本に入り込み、日本社会の見た目を変え、今度はそれが西側に送り込まれ、世界のファッションに影響を与えるようになった。マルクスさんから見ると、「これはグローバル化の最良の事例だ。最初の細い糸がどのように織られてループを作り、一つの製品に織り上げられるのかがわかった」という。

日本はアイビールックを起点に、50年にわたるファッションの発展の後、今や流行文化に最も熱中する国になった。意外なことに、当時変化を後押ししたのは、プロのファッションデザイナーではなくて、企業家や輸入業者、雑誌編集者、スタイリスト、音楽関係者などだった。メディアを操ったファッション界の巨頭・石津氏、トレンドに敏感なファッション編集者のくろす氏などがまさにそうだ。日本の若者がファッション誌をバイブルとあがめる伝統は今も続き、米国では10誌に満たない男性ファッション誌が、日本には50誌もある。

マルクスさんが著作を刊行してからの4-5年にも、日本のストリートではいろいろと変化し続けている。マルクスさんは、「実は、本が出来たその日に、人々が日本のトレンドへの関心を失ってしまうのではないかと心配していた」と振り返った。また、「いくつかの出来事が、中国のファッション産業での地位がもっと重要になるという自分の考え方を裏付けてくれる。中国のファッションについて本を書くなら、最初の9章の内容は最初の本とほとんど変わらないが、第10章はファッションについて別のアプローチをすることになる。中国のファッションについて、今は10の事例を挙げることができる。5年後、中国ファッション産業は世界でさらに重要な役割を果たすようになっていると思う」と述べた。(提供/人民網日本語版・編集KS)

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