戦争記念碑と日本=記憶の“保護”か、“黙殺”か?―中国メディア

Record China    2013年8月6日(火) 19時50分

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6日、記憶を“保護”しようとしているのか、それとも記憶を“黙殺”しようとしているのか?日本のように大規模な戦争記念碑を作り、歴史の継続・維持に努めている民族は多くはない。写真は沖縄の記念碑「平和の礎」。

2013年8月6日、記憶を“保護”しようとしているのか、それとも記憶を“黙殺”しようとしているのか?日本のように大規模な戦争記念碑を作り、歴史の継続・維持に努めている民族は多くはない。だが記念碑が表現する歴史の記憶は、尊厳や道義などの価値規則を離れることはできない。もしも記憶が上書きされ、“暗殺”されるならば、記念碑の表現する歴史と価値規則にもまた、曖昧で人には言えない部分が必ず出てくる。この角度から言えば、記念碑を通じて歴史が上書き・改ざんされ、忘れられようとしている人々も、日本をおいては数少ないと言わざるを得ないだろう。光明日報が伝えた。

広島の原子爆弾の死没者記念碑には、このような銘文が刻まれている。「安らかに眠って下さい、過ちは繰返しませぬから」。この言葉は、戦争に対する日本の反省と平和への願いとして理解することができる。しかし少し考えると、この言葉に理解し難いところがあることがわかる。まず、日本が始めた侵略戦争では幾千万人の人が死亡したが、こうした重い罪を「過ち」や「過失」として表現することは適切だろうか。またこの過ちを犯すまたは過ちを繰り返さない主体は誰なのか。広島に原子爆弾を投下した米国だろうか?それとも侵略戦争を発動した日本、もしくは軍事基地としてアジア侵略の拠点となった広島だろうか?広島では戦後、平和運動が大規模に展開されてきた。しかし我々は、日本が核武装の企図を放棄していないということを忘れてはならない。2012年1月初め、この有名な記念碑が何者かに金色のペンキで落書きされた。広島市長は憤慨し、「これは、原子爆弾の犠牲者に対する冒とくである。これに対し、全社会が怒りを示している!」との内容の発言を行った。この言葉でわかるのは、広島が依然として単純な被害者としてだけ捉えられており、その加害者としての身分は隠されているということである。戦争の罪を和らげる言葉から、主語の不在、曖昧な哀悼の姿勢に至るまで、この記念碑が喚起し創造する戦争の記憶は、現在に至るまで“でたらめな帳簿”にとどまっている。

1950年6月に設立された撫順戦犯管理所はかつて、900人余りの日本の戦犯の赤化に成功した。これらの戦犯は帰国後、「中国帰還連絡会」(中帰連)を設立した。中帰連のメンバーは長期にわたり、講演や著述を通じて、日本の侵略の歴史を証言してきた。軍国主義を復活しようとする人たちの挑発にもかかわらず、彼らは罪を認め戦争に反対する声明を不断に公開発表し、“撫順の奇跡”と呼ばれた。メンバーが高齢化し死去していくなかで、中帰連は解散を余儀なくされたが、日本の若者によって「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」が設立され、中帰連の反戦平和事業は受け継がれた。2005年、中帰連は共同で資金を集め、撫順戦犯管理所内に“謝罪碑”を立てた。さらに2006年、撫順の奇蹟を受け継ぐ会の資金調達によって、埼玉県に戦争記念館と記念碑が設けられた。館内には、日本の細菌部隊の状況を示した文書が集められ、戦犯として中国撫順に収容された元中帰連会員の侵略戦争に関する証言や戦争に関する書籍など、合わせて2万点余りの展示物と資料が収蔵されている。日本を加害者として捉えた有名な記念館としてはさらに大阪国際平和センターがある。記念碑には、戦争の非人道性と平和の大切さが刻まれている。しかしこうした場所は往々にして、日本の右翼勢力の攻撃を受けやすく、記憶の“保護”と“黙殺”との戦いが最も激しい場所でもある。“南京大虐殺”の展示台の前では、右翼の学者が幾度にもわたって「南京大虐殺の徹底検証集会」を開き、南京大虐殺を否定しようとの試みがなされた。記憶の“黙殺”を図っている者は、国家の政界だけではなく、“客観公正”の衣をまとった学術界にもいる。

哀悼の対象が同じ戦死者であっても、記念碑にこめられた思いはそれぞれ異なる。第二次大戦末期、沖縄は戦火に激しく踏みにじられた。沖縄県平和祈念資料館の第4展示ホールには、“鎮魂”の二文字が刻まれた碑が置かれ、戦死したすべてのひめゆり部隊のメンバーの写真がかかっているが、文字による説明はない。一方、民間によって設立されたひめゆり平和祈念資料館には、日本軍が戦争中に取った無責任な行為や加害行為がはっきりと記されている。戦時の日本軍が沖縄の民衆に対して加害行為を取ったかについては対立する証言がある。それは学術界での論争にはとどまらない。作家の大江健三郎は、『沖縄ノート』で沖縄の民衆に対する日本軍の加害行為を紹介したことで、日本の右翼に訴えられた。裁判所の内外で双方は激しく対立した。大江健三郎が勝訴したものの、記憶を守る戦いは依然として継続している。しかしはっきりとしているのは、戦争によって大きな傷を受けた沖縄には、独特な反戦平和意識が育っているということである。沖縄県立平和祈念公園にある“平和の礎”には、沖縄戦で犠牲となったすべての人の名前が彫られている。国籍を問わず、軍人か民間人であるかを問わず、交戦した双方の犠牲者の名を刻み、さらに徴兵によって日本軍に加わらせられた朝鮮と台湾の兵士の名前もある。こうした独特な記憶の場は、事実を抹殺することではなく、犠牲者の範囲を拡大することによって恨みを取り除くものであり、未来志向のものと言えるだろう。

靖国神社の鎮霊社の横には、「北関大捷碑」という碑がある。15世紀末、豊臣秀吉は2回にわたって朝鮮の侵略を試みたが、敗北した。戦争の勝利を記念するため、朝鮮人はこの碑を設けた。1905年、日露戦争の終結後、日本陸軍の池田少将がこの碑を発見し、日本に勝手に持ち帰り、朝鮮の軍と民衆によって贈られたものとこれを称した。2005年、日韓両国の外相会談において、日本の町村信孝外相は、この碑を韓国に返還したいと自ら申し出た。韓国の潘基文外相は、「もしもこの碑が無事に返還されれば、日韓関係にとってプラスとなるだけではなく、朝鮮の南北関係を改善することにもつながる。日本側の言行一致を希望する」と語った。町村外相はすぐに言い方を改め、「帰国後、靖国神社とよく話し合う必要がある。日本政府はきちんとこれを仲介し、最大の誠意で解決を促す」と答えた。だが現在に至るまで、日本が記念碑を返却する兆候はない。

政治的局面の揺れ動きに応じて、日本の歴史認識もまた曖昧模糊なものとなっている。記憶を守るためには、長期的見解や勇気だけではなく、時には生命を代価とすることさえ必要となる。記憶の“保護”と記憶の“黙殺”、懺悔と懺悔の拒否、双方の間の距離は遥か遠く、ほとんど無限にも思われる。(陳言・北京社会科学院)(提供/人民網日本語版・翻訳/MA・編集/武藤)

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