<コラム>兄は孫権の大将軍「諸葛瑾」、弟は劉備の丞相「諸葛孔明」、その兄弟愛

配信日時:2019年10月14日(月) 21時0分
<コラム>孫権の大将軍諸葛瑾、劉備の丞相諸葛孔明、その兄弟愛
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諸葛亮(西暦181~234年、写真1左)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師、字は孔明。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相として良く補佐し伏龍・臥龍とも呼ばれた。
諸葛亮(西暦181~234年、写真1左)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師、字は孔明。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相として良く補佐し伏龍・臥龍とも呼ばれた。2008年、呉宇森監督映画「赤壁:Red Cliff」では金城武が孔明役であったのを記憶されている方も多いと思う。

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孔明の兄、諸葛瑾(西暦174年 ~241年、写真1右)は、三国時代「呉」の政治家・武将、字は子瑜。若い頃に都に出て学問を修め、後漢末の戦乱を避けて揚州に移り住んだ頃、「呉」では孫策の弟の孫権が跡を継いだ。諸葛瑾の非凡さを見抜いた孫権の姉婿で、曲阿(江蘇省丹陽市)に住む“弘咨”が諸葛瑾を孫権に推挙した。孫権の諸葛瑾への評価は高く、軍師“魯粛”と同じく賓客として遇され、長史・中司馬となった。

諸葛亮は三顧の礼で会った劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露、曹操・孫権と今戦うことを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。赤壁の戦いの後、それを実行したことで知られる。諸葛兄弟は徐州琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)を本貫とするが、出生地は定かでない。臨沂市沂南県に広大な臥龍山公園があり、この公園内にある孔明銅像は東方向を向いて指揮台に座っている(写真2左)。沂南県は山東省都「済南市」の南にある孔子の故郷「曲阜」から東に100kmほどで、何もない田舎町である(地図1)。

諸葛亮は呉の軍師“魯粛”と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し勝利した(西暦208年、赤壁の戦い)。西暦229年、諸葛瑾は孫権が皇帝を号すると大将軍に任じられ、左都護・豫州牧を兼任し最高位になった。呉蜀の同盟関係が復活した後は、弟とも連絡は取り合う関係になり、長らく子がいなかった弟のために、次子の諸葛喬を養子として出している。

西暦241年閏6月に、諸葛瑾は68歳で死去した。白木の棺に普段着のままで埋葬し、葬儀は質素にするよう遺言したという。諸葛瑾もまた風格が堂々として思慮深い上に人当たりが良く、政敵を作らず周囲の評判も良く、孫権の絶大な信頼を勝ち得ていた。弟の諸葛亮と公式の場で会っても、孫権の使者として諸葛亮に会うものの、兄弟として個人的に会うことは無かったという。それほど公私をわける兄弟であったからこそ、兄弟はお互いの大王から厚い信頼を得ていたと思われる。それだけ聡明な兄弟であった。

孔明の嫡孫“諸葛京”は父と兄が戦死し、蜀漢が滅亡した時はまだ年少で、西暦264年に本貫に近い臨沂河東への移住を命じられた。西暦269年に吏として西晋に取り立てられ、その後江州刺史まで昇進した。現在、諸葛亮の子孫と称する一族は浙江省蘭渓市に住み、諸葛八卦村という村を形成している。その村で1992年に発見された家系図によると、“諸葛京”の血筋である。(写真2右)は漢中にある諸葛孔明の墓である。

■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
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