<コラム>三国志時代の銅貨幣から邪馬台国を検証する

工藤 和直    2019年6月6日(木) 23時20分

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橿原考古学研究所は天理市の黒塚古墳(3世紀後半)から平成9年~10年にかけて出土した33面の「三角縁神獣鏡」が蛍光X線分析から中国で製作された可能性が高いという結論を出したが、中国のどこでいつ作られたのかの結果はあれから半年を経たが出ていない。

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2018年10月、橿原考古学研究所は「黒塚古墳の研究」で天理市の黒塚古墳(3世紀後半)から平成9年~10年にかけて出土した33面の「三角縁神獣鏡」が蛍光X線分析から中国で製作された可能性が高いという結論を出したが、中国のどこでいつ作られたのかの結果はあれから半年を経たが出ていない。

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魏志倭人伝の記載に景初2年(西暦238年)12月に倭王「卑弥呼」は洛陽に朝貢し、時の魏二代皇帝(曹叡)は卑弥呼を倭王と為し親魏倭王の金印紫綬を授け、銅鏡100枚を下賜したと記録がある。その銅鏡が黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡であるというのが畿内説派のストーリーだ。

筆者は中国駐在時に先秦貨幣(秦代以前の貨幣)を含め中国古銭(主に円銭)を収集してきた(写真1・2)。秦始皇帝によって統一貨幣となった「半両」、漢代経済安定政策の基準になった「五銖」など多くの古銭を集めることができた。しかし、後漢以降「魏・呉・蜀」の三国時代になると、呉や蜀の貨幣(銅銭)は稀に見られるが、魏時代(曹操以降)の貨幣がなかなか見つからないのが実情であった。

山田勝芳「貨幣の中国古代史」によると、後漢末「董卓」による悪銭(董卓小銭)流通により市場経済は混迷した(西暦191年)。その後の洛陽を都とした魏国(曹操)は、董卓小銭を廃止して漢代からの五銖銭を標準貨幣にしようと鋳造を試みるが、銅原料が洛陽周辺から手に入らず、また燃料炭(木炭)も長い戦災によって極度に不足、銅銭による貨幣経済安定が得られない状況であった(写真3は曹魏五銖)。その反面、呉は揚子江周辺(華中)、蜀では成都の西南部で銅鉱石が掘られ「直百五銖:写真1左」・「太平百銭」・「世平百銖:写真1右」や「大泉五百:写真2左下」・「大泉当千」・「大泉二千:写真2右上」などの銅貨幣が鋳造された。これらの筆者が集めた大型銅銭を見るにつけ、銅銭鋳造すらおぼつかない「魏」では、銅鏡をつくることは不可能であったろうと推定する。

強大な兵力を有する「魏」は西暦263年に「蜀」を滅ぼし、西暦265年には魏の実権を握っていた司馬炎による晋王朝(西暦265年~316年)が樹立、西暦280年にはついに「呉」を滅ぼし、ここに三国時代は終了する。ようやく安定した銅鉱石を入手して安定した銅鋳造が可能になったのは、西暦263年以降280年代に入ってからである。そうなると、景初2年(西暦238年)に卑弥呼に下賜した100枚に銅鏡は、魏の時代というより漢時代に作られた漢王朝の「漢鏡」を提供したと考えるのが普通であろう。

黒塚古墳出土33枚銅鏡が中国のどこで生産されたか未だに公開されてないのは、おそらくは華中(揚子江周辺)製の銅・錫・鉛鉱石を使ったからであろうか、畿内説の論客にとっては益々不利になる結果となるからであろうか。2世紀~3世紀初の「漢鏡」が畿内から出ない限り、「漢鏡」や「西晋鏡」など多くが出土する北九州に取って代わることはない。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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